2017.7.29 土曜日。
「星野 富弘 花の詩画展」、香川県丸亀中津万象園内美術館、庭園入場料込、大人一名800円、会期七月二十二日 土曜日から八月二十八日 月曜日まで、期間中無休、開館時間、九時半から十七時まで、入館は十六時半まで。
それではここで星野さんのプロフィールを紹介。
1946年、群馬県勢多郡東村に生まれる。
1970年、群馬大学教育学部保健体育科卒業、中学校の教諭になるがクラブ活動の指導中、頸髄を損傷、手足の自由を失う。
1972年、病院に入院中、口に筆をくわえて文字や絵を書き始める。
1981年、雑誌や新聞に詩画作品やエッセイを連載。
1982年、高崎で「花の詩画展」、以後全国各地で開かれた「花の詩画展」は、大きな反響を呼ぶ。
1991年、群馬県勢多郡東村に村立富弘美術館開館。
2006年、群馬県名誉県民。
2010年、富弘美術館開館二十周年、入館者六百万人。
2011年、群馬大学特別栄誉賞。
海沿いに造られた松の緑が印象的な庭園で独特の風格と趣がある。
この庭を見に行くだけでも十分値打ちがあるのだが、今回はそこに美術鑑賞という楽しみも加わるわけである。
ここの美術館は年間を通して色々な企画展を催しているよう。
実はこの星野富弘さんの花の詩画展、五年前にもここで一度行われたことがある。
その時の鑑賞記をこのブログにもたしか載せてあるはずである。
しかし、一目見て思うのは、掛け値なしで癒される絵だなということ。
本当に口でくわえた筆で描いているのかと思うほど上手な絵。
そして何気ない中に本物の詩を感ぜられる、簡潔にして要を得た言葉の数々。
その言葉を記す文字も決して上手い字ではないが得も言われぬ味わいがある。
余談だが、今、筆者も書道を習っているのだが、ああいう字というのは書けそうで書けない。
それを星野さんは手ではなく口にくわえた筆でいとも簡単に成し遂げてしまう。
改めて凄いなと。
まず、支えてくれる家族への思い。
そしてちょっとした鬱屈とそれに伴うユーモア。
最後は人間や人生、社会に対する鋭い洞察。
そういったものがないまぜになって、一つの形を作っているように思う。
それでは、気になった作品から、その言葉を引いていくとする。
私のように動けないものが動けないでいるのに忍耐など必要だろうか。
そう気づいた時、私の体をギリギリと縛りつけていた忍耐という棘のはえた縄が一つ、フッと解けたような気がした。」 1994年。
何とも味わい深い言葉である。
余分な説明は不要だろう。
じっくりと味わってほしい。
作品を見ていると絵にも様々な変化や工夫が施されていて、例えば水彩で描いたと思われるものが一番多いのだが、その中にも少し濃い目の色調のものや、こってりとした触感のあるものなど様々。
また色の付いてない、白黒のペン画もある。
文字も筆で書かれた太い線のものやペンで書かれた尖った線のものなど、様々な意匠が施されていて見ていて楽しい。
でも何だか疲れます。
ここに小さな花があります 「へくそかずら」といいます。
「へくそかずら」 呼べば心が和みます。」 1985年。
ただ単に美しいものやきれいなものだけで社会は構成されているものではないということ。
このことを星野さんは身に滲みて知っていらっしゃるのだ。
ともすれば、ご自身が社会から疎まれる、生産効率という面からみれば何の役にも立たないとみなされる障碍者であるという自覚がその根底にあるのだと思う。
それがこういう含蓄のある言葉を書かせていらっしゃるのだろう。
話は変わるが、最近、暴力団や犯罪者に対して、社会的政治的美的観念から発してそれを排除しようとする強い動きがあるが、これなどもどうなのかと疑問に思うことがある。
例えば、里に下りてきて危険とされる動物に熊がいると思うが、その場合、山林の一番深い部分を手付かずのままに残してあげることによって、熊と人間の棲み分けを図ることが、不要な惨事を防ぐ手立てとなるわけである。
人間の悪の集団も同じではなかろうか。
排除するだけではなく、社会の一角に一般の人と棲み分けのできる空間を設けてやることによって、社会全体の安定感は増すのではないだろうか。
そうせずにただひたすらに彼らを追いつめてゆくと、やがては社会からはみ出て居場所のなくなった悪の力が社会に対して直接危害を加えることになって却って社会は不安定になってしまうのではなかろうか。
だから昔の人は、今の時代の人のように悪を「根絶」しようとはしなかった。
そのようなことを実現するには膨大なエネルギーと社会的な犠牲が必要になるその割には、実際の効果は上がらないからだが、じゃあどうしたかというと、悪の力を巧みに取り込んでその力を有効利用して社会全体を回す原動力としたのである。
そして平時においては社会の一角にそのような人々が安心して暮らせる場所を提供もした。
これは、社会的な秘密事項になるのだが、社会悪を代表する人々は、善の力と敵対しているように見えて、実はその裏では善と同じ目的に向かって走ってくれる同士だったのである。
これは、悪の集団だけでなく、障碍を持つ人などでも同じことだと思う。
やっぱり彼らも私達と志を同じくする同士なのだ。
そのことを星野さんは平易な言葉で教えてくれる。
話がだいぶ逸れてしまった。
元に戻そう。
ほんと、自然の摂理ってすごい。
神様は種まきもせず刈り入れもしない。
でも毎年、草花や木々や土は咲き誇っている。
その不思議に乾杯。
「よろこびが集ったよりも哀しみが集った方がしあわせに近い気がする。
強いものが集ったよりも弱いものが集った方が真実に近い気がする。
しあわせが集ったよりもふしあわせが集った方が愛に近い気がする。」 1981年。
詩人だなあ。
どうです、この本物の言葉。
妻よひとつはおまえかもしれないね。」 1991年。
歳を経て一層沁みてくる家族への感謝の念。
その思いが素直に表現されている名句。
「苺という文字の中に母という字を入れた遠い昔の人よ
あなたにも優しいお母さんがいたのでしょうね。
時代は変わりましたが今の子供達も皆苺が大好きです
お母さんが大好きですよ。」 2013年。
最後は新作から。
変わらないものへの憧憬と思い。
それを見つめ続ける星野さんの視点もまた永遠なのかもしれない。
だけど、星野さんほど人の心の琴線に触れる作家さんというのはほとんどいない。
今回改めてそのことを感じた展覧会でした。
感動をありがとう。
大満足の朝でした。
素晴らしい絵と言葉の数々を届けてくれた星野富弘さんに感謝。
その作品を私達に届くように展示の機会を設けてくれた中津万象園さんに感謝。
その職員さんたちに感謝。
今日もまた最後まで読んでくれたあなたにありがとう。
それではまた。