世の中全体がなんとなく神経質で傷つきやすいそんな脆い世界になってきている。
そう感じるのは筆者だけであろうか。
先般も新聞で読んだのだけれど、禅の修行で肩を棒でパシッと叩くやつ、警策というらしいが、あれが暴力を連想させるとかで禁止にする道場があるという。
同じく座禅で姿勢を正すのに背中を触ったりするのがセクハラに当たるとして禁止にする道場があるという。
なんかおかしくはないか。
修行とは長年蓄積されてきた洗練された暴力の世界であって、それを自ら否定するというのはどうなのかと思うが皆さんはどうお考えになるであろうか。
話は変わるが、鏡などを作る時、職人は鉄やガラスを磨く。
その際行われる「磨く」という行為は、実は表面に無数の傷を付けることと同義なのだと何かで読んだことがある。
つまり「磨く」と「傷つける」とは紙一重の行為であるというわけだ。
これは人間形成の上における修行においても同じではなかろうか。
男を磨く、人間を磨くとはすなわち、無数の洗練された傷を心に付けられることと同義なのだと思う。
そういえば昔、筆者もさんざんやられたなあ。
ねちねちと周囲からいびられる、そんな暗い毎日を青春時代には送っておりました。
筆者は子供時代には何の悩みも不自由もなくのびのびと育てられた(まことにありがたいことです)のですが、そのせいで、人の悩みや弱さに鈍感で人の痛みを感じるのが苦手な素直は素直だけど冷酷な人間となっていた。
そんな私なんですが、青年時代毎日毎日ただひたすらいびられる日々を過ごしたことで、それを通過した中年時代に入ると人の痛みの分かる人間へと成長していましたとさ。
やられている時には、なんで自分だけがこんなに辛い目に遭うのかと、世間や他人をひたすら恨んでいた私ですが、今こうして過ぎた昔を振り返ってみると、あの体験があったからこそ私は人間として飛躍できたと感謝の思いでいっぱいなんですね。
皮肉ではなく、本当に心の底からいじめてくれた皆さんにありがとうと言いたいのです。
まあ一般に、思い出と言うのは美しさだけを印象に残すものですから、振り返ればなおさら甘美な思い出だけとなっているわけですけれど。
当時はあんなにも辛かったのにね。
ところが、今はそういう地を這うような苦労を背負い込むことを社会全体が忌避するようになっている。
私はこれはとても危険なことだと思うわけです。
人間というのは辛い思いやしんどい思いをしないと変われないという側面を持っています。
大体が、人間の身体自体を考えてみれば分かるのですが、内と外とを皮膚を通して分け隔てているように、身体の構造というのはもともと、自他を強く区別する「差別的な構造」を基に造られているわけです。
つまり、自分自身が一番可愛くて他人は二番というのは、身体の構造からしても自然の原理であると思います。
そんな本能的とも言える差別思考を変えるには後天的な教育が必要となるわけです。
そこで登場するのが、「辛い修行」なんです。
その際、修行する個人を攻撃する側に回るのは仏教で言うところの不動明王系の人々、神道なら鬼系の人々だと思うのですが、これらの人々は一般の悪いイメージと違って、実際には高度に洗練された繊細な美意識の持ち主で私なんかより遥かに優しくて紳士的な人達である訳です。
つまり、「仕事」としていじめをやっている訳で、そこには長年蓄積されてきたここまでなら大丈夫という基準を持った洗練された暴力の行使が保証されているのです。
またこれらの人々は一般の我々よりも遥かに高い倫理意識も持っている人達で、実は二重三重に安全が保障される体系となっています。
しかし、最近では、これらの人々が「仕事」をしにくい状況に日々なってきています。
それが社会にとって多大なる損失とならなければいいのですが。
真言宗では、修行の道程をお大師様と同じ道を行く「同行二人」という言葉で表します。
これは、実際に修行の傍らにいつもお大師様が側に居て下さるという意味の他に、お大師様がかつて辿ってこられた修行の道を、今私が再び辿っていると言う意味を持っていると思います。
つまり、かつてお大師様が躓いたあの修行、この修行、かつてお大師様が悩まれたあのこと、このこと、そしてその末にお大師様がたどり着かれた境地、それをそっくりそのまま私も目の前の修行を通して辿って行っている。
すなわち、お大師様が考えたことと同じ悩みや達成を今、私も同じところで感じている、辿っていっている、そういう意味があると思うのです。
かつて私が若くて理想に燃えていた頃、マルクスの勉強をしている人達の会で、皆マルクスの著作を読んで革命を理解していたような気になっていたのを、青臭い理想論を戦わせていたのを憐れんだのでしょう、師匠筋にあたる人が、マルクスの本ではなくマルクスの人生そのものを君達は再び辿りなおしたらどうかと一喝されていたのを思い出します。
つまり、マルクスのように官憲に追われ祖国を捨て、迫害を受けながらも革命を目指す。
そんな苦労多い人生を若いお前たちも送ってみろと。
しかし、その場でその言葉に反応する人はだれ一人としていませんでした。
今、考えるとそこら辺りにインテリ青年の弱さ、脆さがあったと思うのですがどうでしょうか。
今、自由や人権は先天的に憲法によって保障される時代となっています。
かつてそれらの価値を勝ち取った先人達は皆、凄まじい苦労の末にそれを手に入れた人達ばかりでした。
そうであるが故でしょうか、彼ら先人達は後に続く私達に彼らと同じ苦労はさせたくないと「新しい時代」にふさわしい、手垢の付いてないまっさらな自由や人権をプレゼントしてくれたのでした。
しかし今、私はそこにこそ間違いの種があったのだと強く感じています。
何の苦労もせず、自由が手に入る社会。
それは極めて脆く危険な社会だと思います。
彼ら先人達はむしろ、自分と同じような苦労を若い私達にも味わわせるべきだった。
そしてその末にご褒美として得られる穏やかな自由。
そんな社会にすべきではないでしょうか。
人は簡単に得られるものを大事にしません。
実際、今の若い人達を見ていると、自由の海の中で溺れかけて窒息しそうになっている人が大勢います。
それが、かつて苦労の末自由を勝ち取った先人達が目指した理想社会のなれの果てなんでしょうか。
そして、そんな傷つきやすい坊ちゃん嬢ちゃんが自分一人が傷つくのを避けるため、神経質な制限を社会に設けて何だか風通しの悪い不自由な社会を創り出している。
そこでは個人の自由はそれぞれがただぶつかりあうだけで、そんな一方的な自由のために全体の自由が制限されるという事態になっています。
果たしてそんな社会に住みたいでしょうか。
私はノーです。
本当の自由というものはそんなちゃちなものではありません。
一歩引いた余裕ある視線から生まれる、互いが互いを尊重しあう穏やかな自由。
そんな大人の振る舞いを身に付けるには、むしろ若い頃に苦労をする必要があるのでしょう。
自由とは人間にとって最も憧れの高い理想だと思います。
植物などと違って自分の意志でどこへでも行ける動物たる私達は、そうであるが故に先天的に「自由」に対して憧れをもっているのではないでしょうか。
そんな憧れを逆手にとって、それを最後の最後に与えてもらえる「ご褒美」として修行や人生を構築する。
そんな工夫が必要とされるようになってきている時代だと思います。
議論一つ取ってみても、本当に他者と「話し合う」には、一方的に持論を展開するだけでは駄目なことが分かります。
本当に相手と話し合おうとするならぱ、ある程度、相手に合わせる粘り強い忍耐が必要なのです。
自由って本当はとても難しい。
しかし一方でそれはとてもシンプルで簡単なことでもあるのです。
その勘所を掴んだ、真に自由な温かい社会。
そんな社会に私は住みたいと思います。
そのために皆さん、いっしょに精進してまいりましょう。
本日は最後まで読んでくれてありがとうございました。