本日は書評です。
「ニッポンカメラぶらり旅」、著者 丹野清志、2016.8.25初版、玄光社、税抜1600円。
筆者が初めて丹野さんの本を読んだのは丸亀ゆめタウン二階の紀伊國屋書店でのこと。
本の題名は忘れたが、今回紹介するこの本とほぼ同一のコンセプトで書かれた本で、一読してすぐ余りにも自分の写真の方法論とそっくりのことが書かれてあったので、一瞬パクられたのかと錯覚したくらい。
でも本の巻末にあるプロフィールを見ると丹野さんの方が遥かに年上(ウチの父母とおなじくらいの年齢)だしキャリアも長い。
だから、こっちがパクられたのではなく、知らぬ間にこちらの方が丹野さんの方法をパクっていたということになるのだろう。
おそらくは、筆者を導いてくれている写真の神様の化身、筆者の写真の指導霊が何らかの形で丹野さんの写真の方法論を知っていて筆者にはこれがいいと薦めてくれたのだと思う。
被写体に関しては他力本願的で偶然任せ、さらに向上心はあまりなく、撮影のために特別に金と時間をかけることもない。
そんな怠け者の筆者にうってつけだったのが、丹野さん的な写真だったのだろう。
そんな丹野さんの、筆者とそっくりの写真術だが、その筆者と丹野さんの一番の違いはと言えば、丹野さんはプロの写真家なので、撮ろうと思えばいわゆる「上手い」写真が撮れるというところ。
自慢ではないが、筆者の場合、コンテストで入賞をかっさらうような「上手い」写真というのを今までに一度も取ったことがない。
ないだけに憧れだけは強く持っているのだが、肝心のウデの方が付いて行かない。
例えて言うなら、丹野さんは写真という一つの山を自力で頂上まで登り切り、そしてその頂上から降りてくる時点でこういう肩の力の抜けた写真術を会得した人だと言える。
それに比べて筆者の方はというと、登りはおざなりにいわばヘリコプターで頂上まで行って、楽な下りだけを楽しんでいるその途中で、この独特の写真術に出会った訳である。
だから、丹野さんは自力で頂点を極めた本物だが、筆者の方はそれ以前の苦労がない、裏口入学的な偽物だと言えるだろう。
ここで、丹野さんの写真術の本質を短い言葉で言い表していると言える部分を抜き出して、本文から少し引用してみる。
「行先に決まりはなく、何を撮るという目的もなく、ただカメラを持って歩くだけの旅。
行きたいところへ出かけて、写したいと思ったらカメラを向けてシャッターを切る。」
この本を要約するとこんな風になると思う。
料理で言えば、素材(被写体)に拘り、金と時間をかけて最高の素材を最高の技術と調味料で仕上げる高級三ツ星フレンチではなく、素材もそれなり(そこら辺にいくらでもころがっているもの)のものを用い、こだわりもさしてなく、技術的にもただただ普通の、食べ慣れた味が淡々と並ぶ家庭料理の世界と言えるだろう。
以前、ある落語家さんの大師匠の一人である(名前は忘れたが)人を称して、客に全くウケようと思ってないところが凄いという評を読んだことがあるが、丹野さんの写真もまたそういう感じである。
丹野さんの写真を見て強く感じるのは、上手い写真を撮ろうとか、プロなので人から上手いと思われたいという邪な心が微塵もない点である。
すでにそのような迷いの境地は突き抜けておられるのであろう。
それに比べると筆者などは、未だに上手い写真に対するコンプレックスがあるせいで、隙あらばちょっとでも「上手い」と思われたいといういやらしい心に満ちている。
では、丹野さんの写真は下手かというとそうではない。
いわゆるヘタウマ的な写真で、下手さの中にある種の洗練がある。
だから、もともとは写真の上手い人なのだと思う。
実際、撮れる限度の中で最高の撮り方が探究された痕が随所に見えるのがその証拠だと思う。
ただ、これみよがしのいやらしさがないだけである。
筆者の方は、そういうぶらり旅的な写真、即興的で他力本願的な偶然の出会いと閃きを大事にする撮り方を近所のお散歩を通して実践している訳だが、本書の中で丹野さんは日本全国を巡ってそういう写真を展開されている。
失礼を承知で言えば、そこから出てきた写真にはびっくりするようなものは何一つない。
しかしどれもまっとうな当たり前の写真が並んでいる。
話は変わるが、実は筆者が写真を始めたきっかけは、丹野さんとは正反対の写真家、三好和義さんの「楽園」を見てのことだった。
初めてその写真を見た時、うわすごい、こんな写真を自分でも撮ってみたいと強く思ったものだった。
そして勢い込んで中古カメラを買って写真を始めてみたものの、撮り始めてすぐに壁にぶつかり、ああいう写真を撮るのは自分には無理だということが段々と分かってきたのであった。
実際、筆者の周辺をいくら見渡してみても、ああいう被写体はまずない。
あって、夕焼け、朝焼け、青空くらいのものである。
となると、後は金と時間をかけて理想の被写体を追い求めるしかない。
でもそうまでして、そういう写真を撮りたいのかと言われると、答えは・・・? なのであった。
昔、ジャズトランぺッターの第一人者であったマイルスデイビスが、まだ若かりし頃、ビバップの伝説的トランぺッター、ディジーガレスピーに憧れてあんな風に吹いてみたいと思っていたら、そのディジーからマイルスはこう言われたそうである。
「オレの頭の中には、短くて速くて甲高いパッセージが鳴り響いている。
がオマエは違う。
オマエの頭の中には、低くて遅いメロディが流れている。」と。
敬愛するディジーからそう言われたからかどうかは分からないが、後にマイルスは速吹きを旨とするビバップから離れ、独特の間とジャズの美しさを追求する、いわゆる「クールジャズ」、「ハードバップ」へと転身する。
そして、以降は皆が知るようなその道の大家となった。
バラードの帝王、マイルスの誕生である。
ここで大事なのは、マイルスが速吹きが出来なかったからビバップを離れた訳ではなく、実際若い頃にはチャーリーパーカーと一緒の録音でディジーガレスピーも顔負けの速吹きを披露したりもしている、やれば出来るのだがあえてやらず、単なる速吹きは自分の個性ではないと見切ったところにある。
そこにこそマイルスの本当の偉大さが現れていると私は思う。
最後に本文から引用して終わりたいと思う。
「ぶらりカメラ旅とは、「傑作」目指して撮るぞと意気込んで出かけるようなことではなく、こう撮らなければならないという撮り方をするのでもなく、写真のウデを上げたいと意気込んで撮るような写真ではありません。
決められた構図のテーマにしばられず、日常のありふれた光景と出会い、ささやかなふれあいと素の気持ちで撮りながら気ままに移動していく旅です。」
筆者もまたそんな風に写真を撮りたい、楽しみたいと思っている。
徒に技術だけを追い求める写真、競い合う中で大切な何かを忘れて傑作のみにしか価値を認めない写真術に疲れた人、一度読んでみませんか。
漢方薬のような優しい効き目が心の中にじんわりと満ちてきますよ。
素晴らしい本を書いてくれた丹野さんに感謝。
その本を売ってくれた出版社と本屋の関係者の皆さんに感謝。
そして、今日も最後まで読んでくれたあなたにありがとう。