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書評 「仮名論語」

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本日は書評です。

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「仮名論語」、愛蔵版、平成二十七年六月十五日第一刷、著者、伊與田 覚、致知出版社、5000円税別。

本書を初めて知ったのは、毎月定期購読している雑誌「致知」での特集だったろうか、それともメールで送られてくる致知出版社からの案内だったか、詳しいことはもう忘れてしまったけれど。
とにかく、覚えているのはあの論語が分かりやすく読めて、しかも当代きっての論語学者、伊與田先生の直筆による本書が永久保存版とも言うべくB5版上製箱入りの豪華本で発売されたという事実である。
かねてより、一度は論語を読んでみたいと思っていた筆者は、この機会とばかりに飛びついた訳である。

そして購入を申し込み、送られてきた本は装丁も美しく気品に満ちた仕上がり。
5000円という値段が高いとみる向きもあろうが、実物を目にするとそんなに滅茶苦茶な値段とも思えない。

しかし考えてみれば、本の値段というのは不思議なもので、例えばこれが国宝級のダイヤモンドかなにかだとすると、一つで何億、何十億、何百億とするに違いない。
しかし本となるとどんなにその中身が国宝級でも他の娯楽系などの本と同じ値段しか付かない。
今回のこの本が高いのも、装丁が凝っているから高いのであって、中身が何かというのは値段にはほとんど反映されていない。
先人達が苦労に苦労を重ねて到達した境地が惜しげもなく披露されていても、値段はやっぱり同じなのである。
それが本の凄いところである。
見る方にちゃんとした目があるなら、国宝級のお宝が安い値段で楽しめる、それが本の世界であると言えるだうろう。

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ここで少し、著者の伊與田先生について紹介させてもらうとしよう。
先生は大正五年、高知県の生まれ。
御年百歳を迎える、大先生だ。
学生時代から、東洋思想の大家、安岡正篤師に師事。

先生は高知県の宿毛というところに産まれたそうだが、上三人が女の子だったため、先生が生まれた時は待望の男の子が授かったということで大変母親に可愛がられて育ったと言う。
その母親は、この子を将来、学校の先生にするんだということで周囲に熱心に働きかけたそう。
そのおかげで、他の子より一年早く小学校に上がることができたそうだが、その母親が、我が子が一年学校に通っただけの時に急死する。
まだ幼かった先生はその母の死を嘆き、学校へ行くことを止めてしまったという。

それを心配した父が、親戚の叔父に頼み込んで、先生はその時から論語の素読をするようになったという。
つまり七歳の時から論語の素読を始められた訳である。
以来、百歳になるこの歳まで毎日、論語の素読を欠かしたことはないという。
すごい話である。

今回のこの本の底本となった論語の浄書は、昭和五十八年、先生が生涯の父と仰いだ安岡先生を失った悲しみの中で、学問への情熱が薄れかかった時、それを奮い立たせるかのように思い立って書き始めたそうだ。
初版は昭和六十一年六月十五日。
論語の書き下し文が先生の直筆で書かれている。
何でも山に籠って、香を焚きながら一字一字祈りを込めて書いたという。
著者畢竟の大作である。

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それでは本文の紹介を。
まず初めに儒教について。
仏教徒である筆者から見ると儒教というのは何やら立派過ぎる学問のように思える訳である。
そのことは筆者個人のみがそう言っている訳ではなくて、例えばお大師様、弘法大師もその著「三教指帰」の中で、儒教のことを世間的成功を修めるための学問、富貴の学という風に位置付けてあるのは周知の通り。

だけど本当のところはどうなのか。
今回読んでみて思ったのは、違いもあるにはあるがそれよりも共通点の方が多いのではということである。

例えば、「子曰く、由や堂に升れり。未だ室に入らざるなり。」という一節。
由は人名で、孔子の弟子。
堂とは正庁の表座敷のことで、室はその先にある奥の間のこと。
これを読むと、何やら密教的奥義にも通ずる二階建てに設えられた世間虚仮の構図を孔子も知っていたのだろうかということが推測できる。
また別のところでは弟子の一人が、孔子の教えは高い垣根を巡らせた邸宅のようであって、容易に外からその中を窺い知ることができないとも述べている。

つまり儒教とは、密教的奥義を秘匿するための高い垣根であるということか。
そして一人孔子はその秘密を知っていた。
で、それを弟子にも言葉だけでなく、言葉と言葉の間にある無言の行間で示していたということなのかもしれない。

次に、親への敬いを示す考、目上の者に対する敬いの心、弟について。
これについては改めて言うまでもなく、一般にもこれらの心はよく知られまた浸透もしているが、それと一方でセットになっている、上に立つ者の務めとしての目下の者へのいたわりの心、慈はどうだろう。
考や弟という目上への忠誠のみを強調して自らは、目下の者に対する慈しみの心を持たない者は、この社会にけっこう多い。
最近はそういう人は減っては来ているようだが、孔子の目を通して見ると、考や弟だけで慈の心の無い者は偽物ということになるようである。
くれぐれもご用心。

また読んでいて思わず笑ってしまった一節がこちら。
「吾未だ徳を好むこと、色を好むが如くする者を見ざるなり。」
色とは色恋のこと。
たしかに、やれ壇蜜だ、橋本マナミだと股間と妄想を熱くさせて嬉しそうに語る男を見ることはあっても、同じような調子で興奮と喜びに満ちながら、仁だ考だと熱く語る男というのは見たことがない。
まさしく孔子とは、堅物一辺倒の人ではなく、人情の機微にも通じた優れた人間観察家だったと言わざるを得ない。
自らの唱導する思想が世間では不人気思想であることを十分に認識しながら、それでも複雑化した文明社会の維持において、仁や考、忠といった価値観がどうしても必要だと考えて啓蒙にいそしんだに違いないのである。

例えば、人間の親は、出産したらすぐに死んでしまう鮭の親などとは違って、子供が成長してからもずっと生き続けることが普通である。
そして子には、誰にも親殺しの衝動がある。
独立自尊の心は万人の心の中に隠れているからである。
そんな親子が仲良く暮らしながら平和な文明社会を生き抜くには「考」という道徳が是非とも必要だったのに違いない。
とりあえず偉いのは子より親と一方的に規定することで要らぬ摩擦を回避しようとしたのだと思う。

また、そんな社会に対する破壊衝動というものも人間の中には根強くある。
それに対して孔子は仁や忠を持ってくる。
粘り強い啓蒙で、事を回避する、古人の知恵がここにある。

別の所では、こういうのもある。
一人の人に完璧を求めすぎてはいけないという一節。
これもまた密教的奥義に通ずるものではないだろうか。
密教では、例えばお大師様などは全ての徳が円満に揃った完全なる人間として登場されているが、それはそういう風に見せてあるだけで、実はその正体は集合知にあると思う。
キリスト教の神もそうだろう。
むしろ実際には、弱い一人一人が手を携えることで強くなっているように見えているだけなのであると思う。
一般に儒教は聖人を目指す教えと言われるが、しかし当の孔子はそんなことを本気で考えていた訳でもないことがこの一節からも窺い知れるのではないだろうか。

最後に。
論語の素読用にと作られた本書だそうだが、実際読んでみて思ったのは、思いもかけない奥の深さを湛えている本文、それこそ何度も読まないとその真実の姿を私達に示してくれることはないのでは、ということだった。
なるほど昔から、古人はこの本を音読して身に沁み込ませ、そして一方では歳を重ねて人生経験を積むことでこの本に書いてある本当の意味を身体に落とし込んで行くという作業をしていたのだろうと思う。
そういう意味で、できればなんども読み返してみたい、心からそう思った本。


素晴らしい本を書いて下さった著者の伊與田先生に感謝。
その本を私達に届けてくれた論語普及協会、並びに致知出版社の皆さんに感謝。
今日も最後まで読んでくれたあなたにありがとう。

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