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Channel: 文芸 多度津 弘濱書院
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のど自慢の思想&馬鹿になれ

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日曜昼、家にいる時は大抵NHKの、のど自慢を見ている。
いかにもNHKらしい番組で見ていてほっとする。
この番組の最大の特徴は、本来は歌の上手い人を競わせる番組なのに、なぜか歌の下手な人もかなり混じっているというところにある。
しかも事前に審査、予選がある訳だから、わざわざ選りに選って下手くそを出してきているのである。
考えようによってはこんな変な番組もないわけで。

が、その下手くそを見る観衆の目はあくまで優しい。
あまりに下手だと会場から笑い声も起こるのだが、それは決して相手を低く見て上からあざ笑うような冷たい笑いではなく、優しく見守って包み込むような温かい笑いである。
それに、下手だから出てくるなと怒る人もあまりいない。
出てくる方もそこら辺りは心得たもので、下手は下手なりにブサイクなステージングを楽しんでいる風である。

こういう番組の在り方がいつ頃から始まったものなのか、寡聞にして知らないが、ふと思うのは戦後民主主義との関係性である。
それまで政治というのは閉ざされた暗い騙し合いの世界であって、とても素人が手を出せるようなものではなかった。
あくまで政治とはそれに携わる一部の専門家のものだった。
しかし、戦後民主主義においてはそのような壁は取っ払われ、ずぶの素人が主権者となってプロの政治家を監視監督するという新しい体制が誕生することとなった。

のど自慢における下手くその活躍というのもそれと軌を一にしているのではなかろうか。
曰く、歌とはそれを上手く歌える一部の人だけのものではない。
歌はみんなのもので、下手か上手かは関係ない。
むしろそんなことは一切気にせず、積極的に参加することに意義があると。
番組のそんなところに新しい時代の息吹を感じていた、そんな時代に生まれたのど自慢なのかもしれないと夢想してみる私である。

話は変わるが、同じく戦後民主主義を象徴する雑誌に「思想の科学」というのがあった。
今はもう廃刊になっているけれど。
その廃刊の時の辞に、編集委員の一人であった鶴見俊輔さんが述べた言葉が印象深かった。
曰く、「この雑誌はこれまでただ一人も除名者を出さなかった」と。
つまりその長い歴史の中で、落ちこぼれを一人も出さなかったということである。

これは非常に大事なことで、今、時代の転換点にある現代においても継承しなければならない命題だと思う。
古代、最も進んだ政治体制は専制主義、つまり独裁であった。
民主主義は古代においては専制政治に至るまでの過渡的な政治形態と考えられていた。
と言うのも、人気投票の側面が強い民主主義では、人民の欲望を爆発させるのには好都合だが、その逆に欲望を抑えるのには全く適していない政治体制だったからである。
人々の欲望を抑え、「足るを知る」生活に引き戻すには、政治における独裁とその独裁を支える神から頂いた権威とは必須のものであった。

だけどそのような独裁政治においても、やはり民衆の動向というのは完全に無視する訳にはいかない。
それに何より、政治の網目、そしてそこから零れ落ちてくる人々を救う宗教の網目と言うのは実に巧みに張り巡らされていて、決して一人の落ちこぼれも許さないような強固な体制が築かれていたのである。
そのような政治、宗教における独裁者の一人であらせられる西方浄土の仏様、阿弥陀様は、その四十八の誓願の中で、最後の一人が救われるまでは、自分の悟りもお預けにすると仰られている。
なんとも力強いお言葉ではないか。

時代が移り変わっても、こうして一人の落ちこぼれも許さない社会、下手くそをいかに掬い絡め取るかという課題は脈々と継承されてきた。
今、戦後の価値観が揺るぎつつある時だが、前の世代の最良のものを私達は何とか時代に合う形に変えて継承して行かねばならないのではないだろうか。
何を選び、何を受け継ぎ、どんな時代を築くのか。
一人一人が真剣に考えなければならない時代が来ていると思うのである。


先頃、鶴瓶の家族に乾杯を見ていたら、沖縄県を訪ねている回があって、そこに暮らす人の生活に密着している場面があった。
見ていると、夕方の四時ごろになるとそれぞれの仕事を止めて、酒盛りの始まりである。
テーブルの上には、あまり高価ではないが、新鮮そうな食材で作られた手作りの御馳走が並んでいる。
そして手に手に酒を持ちながら、程よく場が盛り上がってきたら、誰彼となしに三味線に手が伸びて、歌と踊りの饗宴が始まる。
で、しばらくそんな楽しい時間が続いたかと思うと、今度は夕陽が見える海があるというのでみんなで夕陽を見に行くことに。
一杯入った状態で眺める夕陽の美しいこと。

一方、それとは正反対にある都会の暮らしを描写してみると。
仕事は夜遅く残業は当たり前、時には日付が変わる時刻まで働く。
やっと仕事が終わったと思っても職場から自宅までは一時間以上。
季節を感じられる気の利いた料理を食べたいと思ったら、料亭などに行く他なく、最低二万円以上は出さないとまともなものは食べられない。
ちなみにイギリスでは、貴族の食卓を指して、「高い金を出して不味いものを食う」というらしい。

普段は忙しく、昼の食事はあんぱん一個。
給料はたくさんもらっていても、何のために金をもらっているのか分からなくなる状態。
当然家族との触れ合いも少なく、奥さんともすれ違い。
その心の隙間を埋めるため、互いに不倫に走ったり。
金ばかりはやたらに貯まるけど、自分ではほとんど使う時間がない。
だから残った金は先々、家族の間でいがみあい、奪い合いの対象となる。
そんな醜い様を目の前に見て、何のためにこれまで働いてきたのか、自暴自棄になっておちおち死んでもいられない。

なかなか都会人も大変である。
それに比べて沖縄の人の楽しそうなことといったら。
ダニエル・キイスの小説に「アルジャーノンに花束を」というのがある。
知恵遅れの主人公が、最初は馬鹿だったために幸せだったのが、謎の手術によってとてつもない利口になったためどんどん不幸になって行くという物語である。

この主人公、最初はパン屋かなにかで働いていたのだが、馬鹿のため同僚からからかわれてもそれが皮肉だとは気付かないでいた。
むしろ、同僚が自分のことを気にかけてくれいるのだと思って、自分は幸せなんだと勘違いしていた。
馬鹿ゆえの美しい誤解なのだが、しかしそれで本人が幸せなんだとしたら誰がそれにケチをつけることができようか。
そんな主人公も賢くなると、途端にそのような人生のからくりが見えるようになり、それに比例してどんどん不幸になって行く。

私達現代人も、この主人公と同じ病気にかかってないだろうか。
小利口病。
むしろ沖縄の人のように、適度に馬鹿になることで、心の平衡を取り戻せるのだとしたら。

人間には、常に活動していないといられない衝動がある。
フロイトはそれをリビドーと呼んでいる。
そのようなエネルギーを、日々の暮らしの中で吸着するのが仕事である。
でその仕事は、それを社会全体の交換体制の中で必要な物資やサービスを満たすことと天秤になっている。
だから、本来仕事とは最低限必要なだけやれば後はいらないはずなのである。
沖縄の人の仕事の切り上げ方はそういう意味では理にかなっていると言えるのではないか。
自分にも社会にも過剰に負担にならない程度にだけ働いているからである。
そして後は自分と家族のために楽しむ時間に充てる。

馬鹿にはもう一つ功徳がある。
一つ例に出すと、モー娘の辻ちゃん、おバカで有名な、だったと思うが、家族で何か心配事があるとかならず寄り集まって抱きしめあっているそうである。
今でもやっているかどうかは分からないが。
これを聞いた時、私はやっぱりバカは強いなと思った(失礼)。
馬鹿の愛情は駆け引きなしのストレート。
それが子供の心にはビンビン響くのだと思う。

こうして育った子と言うのは何があっても大丈夫なのではないだろうか。
両親からの愛をたっぷり受けて育ったのだから。
反対に愛情を素直に表せない小利口な親の子と言うのは、どこか少し斜に構えた大人になってしまう可能性もあるように思う。

かくいう私も小利口病の患者なのだが、しかしそれでも人間と言うのは本質はバカだと思う。
利口そうに見える人というのは、そのような本来の姿を巧みに覆い隠すのが上手いだけなのではないだろうか。
例えば、余りにも重い衣装というのが、着る者を疲れさせるように、人間の本性に合わない過剰な利口さというのもまた重荷になるのではないか。
そのような中で不必要な物を脱ぎ捨てて人間、いかに自分に正直に馬鹿になれるか。
そのことが、己のためにもなり、また愛する家族のためにもなる。
そしてひいては社会のためにもなる。
今、そのような覚悟が問われているように思える。
まあ、過剰にカンパリ過ぎる馬鹿というのも矛盾だと思うので、あくまで肩の力の抜けた馬鹿ということで。


本日も最後まで読んで下さりありがとうございました。

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