フェミニズムでも最も過激な言論をする人は、あらゆる点で男女に性差はないという見解を取るそうだが、そういう行き過ぎた思想が取りこぼすものを今日は考察してみたいと思う。
まず男女間の性差についてだが、やはり私は最低限それはあると思っている。
例を挙げれば、大体が男はどんなに頑張っても妊娠することはできない訳だし、また夫婦に子供が出来てもどうしても男親からは乳は出ない。
子育てという点において、やはり母親にはあらゆる点で及ばないのが父親というものだと思う。
「瞼の母」や「安寿と厨子王」の物語を持ち出すまでもなく、母と子のつながりというのはとても強いものがある。
例えば、今にも死にそうな困った時、人は「お母さん」と叫ぶことはあっても「お父さん」と叫ぶ人はかなりの少数派であると思う。
この前テレビで、絶叫系マシンに乗る外国人の子供が写っている映像があったのだが、その時その子達が出発前の恐怖に駆られて叫んでいた言葉もやはり「お母さん」であった。
日本の戦中の特攻隊員の最後の日を迎える時の魂の叫びも基本は「お母さん」である。
最近、保育所の待機児童の問題が顕著になってきているが、あれもどうなのだろう。
かなり穿った見方をすれば、母親が本来の子育てを放棄して、金で自分の時間を買っているのが保育園とも言えるのではないか。
だとすれば、これはフェミニズムが最も嫌うわがまま男のやり方とそっくりなのではあるまいか。
昔、筑紫哲也さんがニュース23をやっていた頃、多事争論でデートと仕事のどちらを優先するかという内容で、デートや家庭をほったらかしにしてまでもやるべき仕事というのが一体どれくらいあるのかと疑問を呈していたことがあったが、まさにその通りだと私も思う。
子育ては未来のより良い社会に向けた大切な種まきである。
どんな動物も子を産むということはその生物の一生をかけた大仕事であって、それは人間も変わらないと思う。
鮭などは、子を産むとすぐに死んでしまうが、それは己の命をかけてまでも次に命を繋ぐ大仕事が生命の本質だということをわれわれに教えてくれていると思う。
その時、やはり子育ての中心となるのは産む性の女性だと私は思う。
一方で、フェミニズムの主張も分かる。
長らく女の人は歴史的に抑圧されてきたからだ。
しかし、今日そのような呪縛はかなりの程度に緩和されてきているように思う。
まあ、まだまだだと言われればそうかもしれないとも思うが。
時代も変わってきているし、男も子育てに積極的に参加すべしということもその通りだと思う。
だが、人間として自由を手に入れたフェミニズム的思想の進化している部分は実は一個の動物としては退化していると言える部分もあるのではないか。
子育てという母性の本能の退化。
子供はやはり母の愛によって最大の安心を得るものなのだと思う。
父の愛というのもあるにはあるが、その強度において母の愛には敵わないと思う。
が、母親一人にその任を負わせるのはやはり今の時代無理もあるのだろう。
この前、新聞で読んだのだが、タレントの小雪さんが出産と子育ての経験を通して得た考えとして、昔の長屋風の子育てが自分にとって理想だと書いてらしたのが印象に残った。
なるほど。
色々な周りの人、大人達が互いに付かず離れずで助け合うそんな温かい社会、それが理想だという訳。
長屋暮らしと言えば、互いが互いと濃密にかかわり合うため、自由の制限がありそうな気がするが、これは私の独断だが、江戸の昔にはそれを縛るために「粋」という美学があったように思うのである。
曰く、行き過ぎた干渉やプライバシーへの無配慮は無粋という風に。
だから、実際にはそれほど嫌なものでもなかったのではないかと想像する。
また小雪さんの話によれば、母親として一番精神的にきつかったのは、子育てに忙殺されて世間から隔離されているような状態になることだったという。
他に色々と話を聞く限りでも、これは他の多くの母親も感じていることのようである。
自由と個人の自立が成立して薄い人間関係に悩む現代からするとある意味羨ましくもある昔の濃密な人間関係だが、一般にそれがありすぎると、そこに暮らす人の精神への負担はきつくなるようである。
ある程度、付かず離れずのゆるい関係というのが、精神的には一番ベストの関係のようである。
それと、いかに弱音を吐けるか、逃げ場があるかということも大事らしい。
そういう風に弱い自分の隠れ場所がある社会というのが実は最も自殺率が低い社会らしいのである。
逆に人と人とが濃密に絡み合い過ぎると逆にそれがストレスとなって自殺率は上がるらしい。
そこら辺りは注意すべき点だろう。
自由について。
自由と言えば、戦後の自由は、やりたいことを好きなようにやれる自由ということだと思うが、それまで主に仏教思想が支配的であった日本で自由と言うのはそれとはまったく逆の発想であったことを述べておかねばならない。
例えば、食欲の話を例にすれば。
食べたいものを好きなだけ食べるというのが戦後的意味における自由である。
しかし伝統的な仏教ではそれは自由とは言わない。
むしろ、それは食欲という本能に百パーセント雁字搦めになった完全なる不自由と見る訳である。
では伝統仏教の言う自由とはどういうものであるのか。
例えば、今日は食べ過ぎたなと思ったら、次の日は健康のため少し控えめに有り余る食欲を抑えて食べる。
場合によっては食べないという選択肢もあり得る。
一方で、栄養不足だと感じたらその時はしっかりと食べる。
そして時には本能を十全に満たしてやるため、がっつり食べることもある。
ただ欲望を抑えるだけでなく、食の愉しみを味わう日があっても良いのだ。
そんな風に、人間本来の本能の食欲をよく制御して自由自在に操れるようになることを昔の人は「自由」と呼んだ。
食べたいものを食べたいだけというのはだいぶ趣が違うことがお分かり頂けるかと思う。
もっとも、人間の本能の中で最も強い欲の一つである食欲を完全にコントロールするという離れ業は誰にでもできることではないから、一般の人にはそれができる仏様や神様、菩薩様と同じ方向を向くことで、融通無碍の自由の有難味を享受できるようにしてあるという側面もあった。
私達、欲望に雁字搦めとなった凡夫でも、一たび仏様と同じ方向を向けば、その時だけは心は自由でいられる。
一般に他力の信仰とはそういう性質のものである。
仏様、神様と同じ方向を向くことを「自ら選び取ること=自由」で歴史を貫く大きな流れと一体となってその結果、真の「自由」が得られるという訳である。
子育ての話に戻せば、これからは男もできることは手伝いながら、また男だけではなく周りの人間も赤ちゃんを抱えて大変な思いをされている母親の皆さんをフォローしてあげたりして、母親がその本来の役割である無償の愛を赤ちゃんに安心して注ぎきれるような緩やかで優しい社会の実現を目指すべきであろう。
やはり、人間忙しすぎると優しくなれない。
だから、母親中心の育児を確立するためには、周囲の気遣いが何と言っても重要なのだと思う。
ぎすぎすした心に母親を追い込まないためにも。
気が付いてみたら、保育園なんて要らなかったというのが、これからの社会の理想の子育てなのかもしれない。
私達が金で贖った保育園のその保育士の皆さんは、今低賃金に悩んでいるという。
これまた、誰かを犠牲にして誰かの自由が成り立っているだけだとしたら、それは金銭を媒介とした暴力的関係
の発露と言えるのかもしれない。
だから、特定の誰かにそんな思いをさせるのではなく、どうせ誰かが背負わなくてはならない重荷なら、皆がそれぞれ少しずつ分け合う優しい社会の実現を目指すべきと思うのだがどうだろう。
今日は少し、フェミニズムを信奉する皆さんには厳しいことも書いてしまいました。
それぞれに意見はおありだと思う。
それぞれの場所で見識と議論が深まるきっかけになればと思い、批判覚悟で書いてみました。
あしからず。
今日も最後まで読んでくれてありがとうございました。