本日は書評です。
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「老子講義録 上下二巻」、講述 本田濟 編者 読老会、致知出版社、平成七年二月二十五日初版、平成二十九年七月二十日第三刷、二冊箱入り、10000円、税別。
時は平成元年。
財界のトップや大御所達が当代一流の碩学であった本田濟先生を招いて中国の古典「老子」を学ぶ会を開いた。
その名も読老会。
その会の構成員がまた凄い。
三井、三菱、東燃、東電、JR、清水建設、伊藤忠、野村証券、第一生命、日本興銀の当時の社長会長頭取クラスが集まってきているのである。
実にそうそうたるメンバー。
で、その勉強会をそのままにしておくのももったいないと、会の内容が上下二冊の本になった。
それが今日紹介するこの本である。
それではここで講義を担当する本田濟先生のプロフィールを紹介。
中国哲学者。
大正九年三重県生まれ。
京都府宇治市出身。
昭和十七年、京都帝大文学部哲学科卒。
昭和二十七年、大阪市立大学文学部助教授。
昭和四十年、教授。
昭和五十五年、退官、名誉教授。
梅花女子大教授を経て、昭和五十八年、学長。
平成二十一年逝去。
それでは本文を見ていこう。
全編を通して読んだ中でも、筆者が特に印象に残った言葉はこれ。
太陽や水や風、大地と言った母なる自然は、あらゆる地上の生命を養い育てているにも関わらず、そのことで自分の功績を誇ったりはしないという一文。
たしかに、あれだけの活動を成し遂げているにも関わらず、それら全てをオレが育てたと自慢する太陽や大地と言うのは見たことがない。
どころか、それら母なる自然はただ当たり前のように法則だけで動いており、ただ益だけを生命にもたらして(時には害もあるが)何らの見返りや名誉を求めることもない。
そしてそのことから老子においては、聖人の在り方もそのようでなければならないという結論を導き出してくるのである。
つまり恩恵だけをもたらして、あとは何もなかったかのように淡々とやりすごすというのがホントの聖人だと。
これは、仁などを前面に打ち立てて聖人の徳と恩を大々的に訴える儒教と一番違う部分である。
さらに儒教と違う部分を挙げるとするならば、以下のようなところだろう。
山のように高く不動にそびえてその高徳を以て人を従わせるのではなく、むしろ逆に谷や海のように一段低いところに身を置くことによって初めて世間の上に立つことができるのだと。
海というのはこの地上で最も低いところに位置するため、ありとあらゆる水がそこに集まってくる。
谷も同じ。
低いが故に天下の大事が集まりやすくなり、事を動かすことができるという。
そして面白い話がもう一つ。
何でも大きな器というのは、中身がからっぽだからその用を為すのだと言う説がそれ。
例えば鍛冶屋が使う「ふいご」。
これは中がからっぽだからこそ無限に風を起こし続けることができる。
大きな入れ物もそうで、これも中がからっぽだからこそ、そこに何かを詰めるという「用」が足せる。
中が一杯に詰まっているとその器はそれ以上「用」を足せないから却って役立たずとなる。
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まだまだ面白い話は続く。
例えば、とある木の話。
ある所に何十年も切り倒されない立派な巨木があった。
その木の前を通りかかった大工の一行が、こう会話する。
「実に立派な木だなあ。あれを使うと、さぞいい仕事ができるだろう。」
しかしそれを聞いた大工の頭領は一言。
「あの木は見た目こそ立派だが、木材としては曲がりまくっていて、節ばかりが多くてとても使い物にならない。だからああしていつまでも放って置かれているのだ。」と。
ここから老子は「無用の用」という考えを導き出す。
大工仕事や指物に使える有能な木は少し育ってくるとすぐに伐採されてしまう。
しかしそれに比べて何の役にも立たない木というのは、それが故にかえってその寿命を全うできる、と。
従って、巨木にもなれるわけである。
かくの如く、老子とはアンチテーゼの思想である。
儒教という主流に対してその行き過ぎを牽制するのにぴったりの思想な訳である。
最後に、老子の政治理論について少し見ておくことにしよう。
天下を取るということについてはこう書かれている。
天下を取るには強くあるのではなく、むしろ弱くあれと。
生きている物は、例えば植物でも、柔らかい、逆に死んだ物というのはコチコチに硬くなる。
だから柔らかく弱いものが硬く強いものより強いと言うのである。
孫子の兵法にも通ずるような考え方である。
すなわち一番へりくだっているものが一番天下に近いと。
さらに民を治めるには民の欲望や知性の行き過ぎを排し、単純な欲望に留めておくことによって治めるようにせよとも。
これなどは額面通りにとると、カンボジアのポルポト派のような反知性主義の政治のバックボーンとなってしまうような危険な思考と言えるだろうが、一般に老子と言うのは政治理論の上においては、主流の位置に置くのではなく、もっと別な開明な思想を太い主流を別においておいた上でそこに副次的に絡ませるような配置が最善であるように思う。
例えば、老子の「無為の政治」の理論も突き詰めて現実政治に実現されると秦の始皇帝のような強い独裁を支える理論となってしまう。
そこから焚書坑儒のような悲劇も生まれてくる訳で。
やはり現実政治に於いては、儒教のような理論を表において置くのがいいように思う。
その方が遥かに実害が少なくて済むであろうし、全体の収まりもいいのではないか。
やはり儒教の言う通り、君主には徳があった方がいいし、その方が生の権力のむき出しの暴力性というのが、かなり薄められて庶民から見ると遥かに安全になることは請け合いである。
老子の思想はそういう意味においては、単独で政治の表に出てくるのには向いてない思想なのだろう。
ただ、儒教の教えが徹底され行き過ぎになった時の解毒剤としては極めて優秀な働きをするように思う。
ただ老子の名誉のために一言付言しておくなら、上記のような政治理論は現実に発展しすぎた社会や文明に対する病への根本的反省としてあるように思う。
つまり現実政治レベルの話ではなく文明史論的な認識なのである。
それを政治的に流用して、原理主義的に敷衍するとおかしなことになるわけで。
あくまで知的な反省としてリーダーたる者が心の奥に、その思いを深く保っていることが大事なのだろう。
最高の本を提供してくれた本田濟先生に感謝。
読老会の皆さんにに感謝。
その本を出版してくれた致知出版社さんに感謝。
今日もまた最後まで読んでくれたあなたにありがとう。