宗教とは本質的に依存症的なものであると言ったら少し言い過ぎだろうか。
しかし現実にはそうである。
筆者は若い頃、キリスト教の勉強をしていたのだが、カトリックの初期教父の一人であるアウグスティヌスの著書などを読むと、かなり神様に対して依存症の傾向のある文章が延々と続いていたことにびっくりした記憶がある。
西洋人が強い個人の観念と生きざまを手に入れたのはむしろ近代に入ってからのことで、それ以前は彼らも十分に弱い個人である依存症的な人生を送っていたようなのである。
少し話はそれるがアウグスティヌスと言えば名著「告白」がある。
自由奔放な古代ローマの青年が主人公。
で、当時の庶民の娯楽であった奴隷罪人による公認の殺し合いの大会、コロッセウムに夢中になっている本能のままに生きるその青年が、熱心なキリスト教徒であった母の愛と神の愛の導きにより、それまでの本能のままの無軌道な生活を捨てて信仰の道に入るまでを描いた青春物の傑作。
当時、読んだ本の中で最も好きな一冊であった。
西洋の価値観と言えば、例えば現代ポップスの歌詞などでもラブソングだと、あなたなしでは私は生きて行けないとか、日本人の感覚からすると少し女々しいように見える、恋愛依存症的な側面が垣間見える歌詞も多い。
このことからしても、もともと人間とは何かに依存しなければ生きていけない動物なのだろうかと考えさせられる。
だったら、いくら依存しても身体にも心にも何の害もない「神様」に依存してはどうかと考えたのが、昔の宗教だったのだろう。
現代における依存症の諸相を観察してみると、西洋なら麻薬の跋扈がまず最初に挙げられる。
ヘロインや大麻、オピオイドや幻覚剤など。
後、依存症と言えば酒やギャンブルがあるが、いずれも生活の基盤を脅かす恐ろしい病気である。
禅の大家の山田無文老師だったか、刑務所を訪れた時、そこでの説教の第一声にまずこう言われたそうである。
「せっかく、この世に素晴らしい仏法というものがあるにも関わらず、世の坊さんたちが布教をさぼっていたせいで、皆さんを罪の世界に追いやることになってしまった。全くもって申し訳ない。」と。
同じことが現代にも言えるのではないだろうか。
ヘロインやオピオイドは身体にも心にも害が強い。
それは使用しているいっときだけは気持ちがいいのかもしれないがその効果は長くは続かない。
だから次第に量が増え、積もり積もった副作用が怖いわけである。
酒やギャンブルも然り。
ところが宗教だとどうか。
いくら依存しても実害はほとんどない。
どころか神様という「善き者」に依存することで、それに依存する者は身も心も軽くなって本当の自由を味わえる。
それに社会的にも穏やかな人が増えれば、住みやすい世の中になるから益が多い。
まさに「宗教という素晴らしいものがこの世にありながら、・・・」と現代の聖職者はそう依存症患者に詫びなければならないのかもしれない。
そういう意味において、現代における宗教の真のライバルはこれら世にはびこる依存症なのだと思う。
ヘロインや覚せい剤やオピオイドに酒にギャンブル。
と、まあ、宗教宗教と一口に言っても色々な宗教があるから、本当はそんなに薔薇色一色の未来でもないのだろうけど。
例えばオウム真理教のような宗教だと、それに依存してしまうことは最悪の未来を迎えることになるであろうことは常に肝に銘じておかなくてはいけないだろう。
宗教は宗教でやはり独特の怖さはある。
しかし本来の宗教とは、そのような全ての社会的善悪を呑み込んで、ゆるゆるとした神様と人間の癒着の中で、己を少しずつ律して最終的には自分にも他人にも、また地球環境にも優しい人間を形成することにその意義があるのだと思う。
決して厳しいだけではない、優しさに満ちたものが本来の宗教の姿である。
そしてそのような穏やかな人間によって形成される社会もまた穏やかで許しに満ちた優しい世界であるように思う。
だから逆に言うとそのような宗教は近代においては、人間の欲望を直線的に爆発させて経済成長を引き起こさせる資本主義体制にとって最も敵視すべき存在となったわけである。
だから、近代主義の偉人達はこぞって宗教を敵視した。
中でも最も有名なのが、宗教は民衆にとってのアヘンだと喝破したマルクスである。
この言葉はそれまでの社会を形成してきた本質を見事に言い当てている。
わずか一言で急所を突いている。
さすがというべきであろう。
将棋で防御の強い美濃囲いを崩すには六一金を動かせというらしいが、それまでの強固な非発展型社会を突き崩す一手はまさに宗教の持つ人心への依存症的側面を突破することにあった。
この点において、マルクスもGHQもおさおさぬかりはなかったわけである。
しかし逆に言うと、その宗教の基盤を立て直すことがこれからの低成長時代を生き抜くキーポイントとなるのではないだろうか。
明治維新までの日本、具体的には江戸時代、は儒教と道教そして仏教という三つの思想が重層的に重なり合って形成されていた社会であった。
儒教で人の心の立脚点を示し、道教で儒教疲れした心をいやす術を知りまた行き過ぎを反省し(過ぎたるは及ばざるがごとし)、そして仏教で悪の力をも社会的に取り込んだ創造のエネルギーを体感する。
戦国時代において花開いた全社会的な「自由と欲望」の発露は徳川時代において見事に閉じられる。
現代もまた、戦後の経済成長と資本主義=自由民主主義体制によって極限まで人々の欲望が解き放たれた世界となっている。
今日、そのような世界においてこれを閉じて行くのは不可能なように思われている。
しかし歴史を見れば、それは必ずしも不可能でないことが分かる。
例えば、戦国から連綿と続いてきた、織田、豊臣、徳川と続く天下平定のラインにおいて、戦国時代において極限まで肥大した欲望を閉じる具体的な手練手管が示されている。
もちろんそれを現代にそのまま使えるかどうかは別として、本気で今日の社会の変革を望むなら、その歴史の流れはそれを学ぶ者にとって大いに参考になることであろう。
そういう意味においては、私達は革命第一世代になれる希望があるのかもしれぬ。
偉大な平和の世を築いた徳川時代の初代の人達と同様、後世歴史に語り継がれる「正法第一世代」として。
正法、像法、末法とは仏教における三つの時代区分であるが、正法とは現実人生において、欲望の肥大とそれに対する超克を実際に体験した人による世の中である。
そこは正しい悟りに満ちた強固な世界。
像法とはその正法の人に教えを聞いて、自分では体験を通して学ぶのではなく、「教えられて」悟りに至る時代。
そして末法とは誰も教えに目を向けず、欲望のままに生きる時代。
今の世はまさに末法である。
しかし正法は末法の中からしか生まれないということを鑑みると、私達はとてつもなく大きなチャンスの波の中にいることに気付くのではなかろうか。
神君、徳川家康公のように、長く語り継がれる「初代」となることができる資格が私達にはあるのかもしれない。
乱れたこの世と我が身を立て直すべく、同士の皆さん、共にがんばりましょうぞ。
本日も最後まで読んで下さってありがとうございました。