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Channel: 文芸 多度津 弘濱書院
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米中間選挙の結果から見えてくる哲学的考察

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アメリカの中間選挙が終わった。
上院は共和党が勝利したものの下院は民主党が押さえた。
アメリカは以降、ねじれ状態の議会運営を迫られることとなる。

なんとなく、出てきた時からトランプ大統領を応援してきた筆者としては少し寂しい限りだが、これでトランプさんがすっかり大人しくなってしまうのかといえば、案外そうでもないらしい。
そこら辺りが政治の面白いところというか読み切れないところで、普通ならこれまでの神通力が消えてしぼんでゆくのかと思いきや逆にますます独断専行に拍車がかかる可能性があるというから面白い。

政治とはこのように一般の感覚からすると奥が深くて読み切れないものと言える。
筆者もこうして偉そうに政治のことを書いてはいるが、専門的な展開となると結構予測は外すものである。
だから筆者は真面目に投票に行っている。
なぜなら、政治のことはいまいちよく分からないから、ちゃんと分かった人にその仕事を託したいと思っているから。

しかし、アメリカのリベラルの勢いというのは一方で凄まじいものがあって、何十年か前と比べると格段に中身の濃い自由を手にしているように見えるのに、どこから湧いてくるのか「まだ足りない、まだ足りない」と日々その要求をブラッシュアップして世間に訴えかけてくるようなところがある。
本音を言うと、筆者はそのリベラルの主張に最近少し食傷気味だった。
絶え間のない理想の素晴らしさを感じつつも、一方ではもうその辺でいいんじゃないですかと思っている自分が心のどこかにいるのである。

そのような近代の「完全なる自由」を求める自由主義と違ってそれまでの宗教に基づく「自由」とはなにかと問えば、例えば潮流とそれに乗って泳ぐ人に例えると分かりやすいように思う。
神様仏様が大きな歴史の流れの方向を決める。
するとそれが目には見えない大きな流れとなって水の中に強力な潮の流れを創り出す。
完全なる自由にこだわるものはそのような潮の流れに関係なくこの海を自由に泳ぎたいと思う。

しかし実際、海の中を泳いでみるとなるとどうだろうか。
潮の流れに反して泳いでいるとどんなに高速で手足を回転させても、ちっとも前に進まない。
どころか身体はただ疲れるだけで実際にはほとんど前に進まない。
それに下手をすると後退さえする。
が、そのような「自由」を諦めて思い切って潮の流れに身を任せるとどうなるか。
すると目的地こそ自分では選べないものの、身体ははるかに楽になり手足を全く動かすことなくどんどんと前に向かって進んで行くことが可能となる。
その時、私は初めて「自由」を知る。
目的地を選ぶ「自由」を捨てることで、却って身体と心の「自由」を得るのである。
宗教で辿りつく「自由」とはこういう性格のものだ。

ところが近代になってその自由の意味は変わった。
サルトルの有名な考察に「我々は自由の刑に処されている」というのがあるが、サルトルは旧世紀の教養の中で育った人なのだろう。
それまではカトリック教会が保証してくれていた個人の選択に基づく結果責任が、教会の教えから離れた近代主義の中においては、神無き世界の中で「個人」の自己責任になることの恐ろしさを十分に知っていたのである。
カトリックにおいては、自己決定と自己責任のワンセットを神様が「個人にかかる重荷を負ってあげる」と称して一括して請け負ってくれていたのである。

そういう意味において、自由とは本来恐ろしいものなのだと言える。
特に近代の自由。
それは、先ほどの潮流の話に例えれば、自由、個人、自己責任、の三本柱を軸に人権や思想信教の自由をいわば潮に逆らう「船外機」として、その人工的な動力によって潮に逆らって泳ぐことを可能にする。
で、問題。
それで私達は「幸せ」になれたのだろうか。

今のリベラルの人達を見ているとサルトルなどがかつて抱いていた自由への怖さというのはほとんど共有されていないように思う。
そして何だか盲目的に自由がかさ上げされていくことが「善」だと素朴に信じ込んでいる風である。
なんとなく底が浅いのだ。
これらの者はトランプ支持者が盲目的だというが、リベラルの方もそれに負けないくらい無目的的で盲目であると私は思う。
なぜなら、近代的な自由というものに対して全く無批判なのであるから。

話は変わるが、最近、近藤誠先生という人が書いたがん治療に関する本を立ち読みした。
そこに書かれていることが全て真実なのかどうか筆者は専門外の人間なので断定はできないのだが、がん治療はやればやるほど、ドツボにはまるらしい。
がんの痛みとは、実は抗癌剤などによってがんと「闘う」ことによって生まれる痛みらしい。
人によって違うそうだが、放置しておくとがんというのはほとんど痛みはなくまた死ぬ時もかなりすんなりと死んでゆけるらしいのである。
何だか読んでいて目からうろこであった。
これも何だか近代主義の限界を表しているようで面白いと思った。

治らない病気はないと言い切るのが近代主義の医学の常で、それまでは治らない病気はいくつもあった。
いや正確に言えば今でも治らない病気、よく分からない病気はいくらでもある。
でも近代主義というのは、分からない、出来ないと言えないイデオロギーが前提となっているのである。
でもそろそろそういう縛りから「自由」になって、分からない、出来ない、無理ですと言える世の中にならないものなのだろうか。
近藤先生などは、がんの「分からなさ」、生命や寿命の分からなさをそのまま肯定してくれる先生のように思うがどうだろう。
患者を前にして出来ることと出来ないことの区別をして、はっきり「分からない」、「無理です」と言える医者は信頼できる医者のように思うのだが。
皆さんはどう思いますか。

最後にトランプさんの保護主義について。
対外的に過激と言えるトランプさんの保護主義、アメリカ第一主義は、結果として「世界同時革命」の推進力になっていたように思う。
何故なら、世界経済を意図的に分断化することによって、次の時代に向かう新たなエネルギーがそこに生まれつつあったように思うから。
だからトランプさんにはもう少し暴れていてもらいたいのだ。
間違いなく世界は新しい時代とそれに伴う新しい経済に向かって、いい方向に進みつつあったのだから。

トランプさんは今の迷えるアメリカと世界に神から下された「劇薬」なのだと思う。
劇薬は時に人を死に至らしめる。
しかし、用法を守って使えば、思いもしない効果をもたらすことがある。
今のアメリカと世界に対してこの劇薬が必要という「神様の判断」が生み出したもの、それがトランプ大統領と言える。
しかし、劇薬にはきつい副作用がつきものだ。
今回の中間選挙によって議会のねじれを創り出したのは、そのような劇薬の強力な副作用に対する懸念から少しブレーキをかけておこうという神様の絶妙の判断が働いた結果なのかもしれない。

国家の分断、激しい左右の対立、国際状況の激化など、薬が効き過ぎている状況も実際に出てきつつある。
今後ともそのような緊張感の中で、アメリカがいや世界がどんな風に転がっていくのか一時も目が離せない。
その意味でトランプ劇場はまだまだ続いていくのだろう。
世界がよりよい未来を取り戻すために。
これからもその行く先をみつめていたいと思う。
がんばれ、トランプさん。


本日も最後まで読んで下さってありがとうございました。

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