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Channel: 文芸 多度津 弘濱書院
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論考二発

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今週は論考の二本立てで。
まずは一本目から。

よく、教育の格差ということが言われる。
で、その格差をなくすため、誰もが高等教育を受けられるよう事態を改善するようにも。
それ自体は素晴らしい発想だと思う。
でも一方でちょっと待って欲しいとも思う。
そもそも、その前提となっている教育の格差それ自体がどうも怪しいという視点がそこに欠けているのではないか。

どういうことか。
例えばよく引かれる例として、教育の格差により生涯賃金の差がかなり生まれるという指摘がある。
でも、大卒ならそれだけで多くの賃金を貰えて、中卒だとどんなに頑張っても賃金が上がらない。
これっておかしくないだろうか。
格差を解消したい人達はだから誰でも平等に高等教育を受けられるようにという。
でも、私はそもそも中卒だからといって賃金が生涯に渡って上がらないというそのシステム自体に疑問を感ずるのである。

中卒でも現場でたたき上げていっぱしの者になったら社長にもなれるし、また生涯賃金も大卒と変わらないくらいにもらえる。
本来ならこういう社会を私達は作らなければならないのではないだろうか。
差別はいけないといいながら、教育における格差=差別はむしろ当然のこととして多くの人に受け入れられている。
難しい受験を頑張ったのだから、いい思いをして当然と。

人にはそれぞれ個性があるから、十代の若い内から頭角を現す人や逆に大器晩成の人もいる。
しかしそういう個性を十把一絡げにして、受験というたった一度の紙切れのテストで人生を決定する。
そもそもそういうのがおかしいという発想に今一度我々は立たなければならないのではないか。

なにかの本で読んだのだが、江戸時代にはやくざ者の親分みたいな人でも、その道を登りつめた人であったからか、話をしてみると学者も顔負けするくらいの教養があったという。
人は誰でも地位が上がってその業界の代表となると自然、外の世界との交渉にあたるようになる。
その時、必要とされるのが教養というものなのである。

今、その教養は主に十代の若い頃に大学で、教養に対して何の興味も持っていない若者に垂れ流されるような感じで施されている。
しかし、そのような教育とやらに一体どれだけの意味があるのだろう。
筆者も思い当たるが、例えば中学で習った数学の問題を今解いて見ろと言われたら、多分解けないと思う。
何の必要性も興味もない時期に詰め込まれた教養というのは往々にしてそういうもので、時間が経つときれいさっぱり忘れてしまう。

それより、地位も身分も得てそれなりの人間になった時、最後の修養の一つとして教養が欲しいと心の底からそう思う。
その時、教養を与えることができるならそれが最高の教育なのではなかろうか。
もちろん、そうなった時のために幼い頃から読み書きそろばんだけはしっかりと教えておく必要があると思うが。
しかしそれ以外の細々とした教養のようなものは幼い頃から特に教える必要はないように思う。
だから、一律に大学に入る年齢を十八才とせずに、学びたい時に学べるようないつでもだれでも入れるそんな公的機関として大学を再編する必要があるのではないだろうか。

やくざの親分でも泥棒の総大将でも詐欺師の大家でも立派な教養を身に備えることができる社会。
中卒でも馬鹿でも犯罪者でもなんら問題なく、本人のやる気次第で生涯賃金と出世が保証されている社会。
願わくばそんな社会に生まれ変わりたいと思うのは幻想だろうか。


続いて二本目です。

能率よく人間の能力を発揮するには、少しのストレスが適度にかかっている状態が一番いいのだという。
緊張しすぎだと能力を発揮できないし、逆に弛緩し過ぎでも能力を十分に発揮できないという。
しかしこの適度なストレスという状態を作るのは実際にはなかなか難しい。
頑張り過ぎる人は往々にして適度を超えて過剰なストレスに身をさらすからだ。
だから、古来そのような人に対しては頑張らないでおこうという特効薬が処方されてきた。

これは本当に頑張らないと言うのではなく、頑張り過ぎの人にその弊害をなくして適度な頑張りに引き戻すため便宜的に使われているものなのかもしれぬ。
私などは本当の意味で頑張らない人間なので、逆に叱咤激励が必要なのかもしれない。
でも頑張り過ぎよりかは、まだ全く頑張らない方がいいようにも思う。

だいたい仏教がそういう教えで、これは常日頃から思っているのだが、仏教とは左前の思想である。
やればできるのに、もっともっとと突き詰めず、ある程度のところでやめてしまう。
もっと稼げるのにほどほどのところでやめる。
つまり足るを知るということ。
これ全て仏様の教えの核心である。

話は変わるが、ものごとを行うにあたって集中力が大事ともいう。
しかし実際にはそれだけではないようだ。
これも古来知られているところだが、歴史を変えるような重大な発想というのは一途に思い定めて直線的に解が得られるものではなく、むしろ一途に思い定めた後に一旦諦めて虚ろになっているような時にふと思いがけず天から降りてくるようなものだという。
数学者の森毅さんが言っていたのだが、重大な発見には集中力よりむしろ散漫力と。
ずっーと思い詰めた後にふっと息を抜く。
そのリズムが大切だと。

生物学者の村上和雄さんも、合理性と論理による推論で迫るデイサイエンスより、直感とひらめきのナイトサイエンスが大事だと述べておられる。
科学というと、何やら四角四面で論理の筋を丁寧にただ一筋に追いかけてゆけば結果が得られるのではないかとそう思いがちだが、実際は違うという。
重大な発見には論理の飛躍が重要で、それは論理だけを追いかけていては出てこないものなのだという。
よく、夢の中で偉大な発見のヒントをつかんだという話を聞くがそういうことなのだろう。

最初の話に戻れば、適度なストレスと一途な集中の後の散漫、この二つがどうやら日常生活を張りのあるものにするコツらしい。
そこに仏教の左前思想のほどほど主義を加えると、結果としてあまりストレスのない快適な日々が送れるのではないか。


本日も最後まで読んで頂きありがとうございました。

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