本日は書評です。
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「孝経・大学・中庸新釈」、三冊セット、致知出版社、塩谷温(孝経)、諸橋轍次(大学)、宇野哲人(中庸) の三人による著作、分売不可、箱入り、税別5714円。
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本書は今を遡ることはるか昔、戦前の昭和四年四月二十日に弘道館出版から発売された本だそう。
その本を致知出版社が注目し、このような名著を埋もれさせておくのはもったいないとして、また読者からの評判もすこぶる良かったということで、めでたく復刊の運びとなったという。
復刊にあたっては、旧漢字を新漢字に改めたり、旧かな遣いを新かな遣いにしたり、釈文の文意を損なわない程度に現代風の表現を採用することで新たに出版したそう。
すでに論語に関しては伊與田 覚先生の「仮名論語」(なんと先生の直筆で全編論語の書き下し文が書かれている大著)を読んでいた筆者。
そこから先に進んで他の書物をと思っていた矢先、この本の刊行のお知らせがあった。
分かりやすい解釈と本格的な内容の本だということで買うことにした次第。
本文の内容はまず、漢文の提示があって、次にそれを日本語で書いた訓読文、そしてそれを現代語訳した通釈と解説という構成になっている。
だから筆者のように漢文が読めない不勉強な人間でも読むのに苦労するということは全くない。
まず通釈を読んでから、それをもとに漢文にあたってみるとより味わい深く、古典の世界を感じ取ることができる仕掛けにもなっている。
もちろん読める人は漢文から読み始めてもいい。
読み方は人それぞれと言うのが活字のいいところ。
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さてそれでは肝心の本の世界に分け入ってみるとしよう。
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まず「孝経」から。
冒頭、「孝」とは全ての人間道徳の基礎となるものだということが高らかに宣言される。
「孝」とは父母に対する天然自然の理である敬愛の心、動物的本能からくる親愛の情である。
孝経においてはそのような父母への愛情を父に対する孝と母に対する孝とを分けて考えている。
この点は面白いところだと思う。
例えば、母子の間の孝には情の側面が強く出るが、父に対しては義とか理とかいった少し硬めの敬愛に基づいた孝が強く出るという。
そのような孝が、ひいては父母だけの愛情にとどまらず、例えば君臣の関係における忠などにもつながっていく。
またそれは人民が互いにいつくしみあう心にも繋がる。
臣下は君主を敬愛し、君主は臣下を子を慈しむように可愛がる、人民同士もまた。
そうすれば自然に、天下には互いに愛親しみ相愛するの道が行われるようになるという。
そしてその根底にあるのは天然自然の理である父母への愛情を基礎とした「孝」の心なのであると孝経はそう述べる。
次いで「大学」。
大学の根本は「明明徳、親民、止至善」の三つということがまず最初に提示される。
明徳とは、自然状態においてすでに天から授かっている徳を明らかにしてそれにさらに磨きをかけるということ。
大学においては、本来人間は天から完全な徳を授かっているとされている。
しかし、多くの人間はそのことに気づかずに煩悩の闇に覆われてそれを活かせずにいると。
やはりそのままではだめなのでいち早くそれに気づいて自分で自分に磨きをかける必要があるという、それが明徳。
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親民とは読んで字の如く民に親しむという意味もあるのだが、一方、親という字には新たという意味もあるらしく、従ってここでは今日よりも明日、明日よりも明後日という風に、日々新たな新生涯に入ることを勧めるという意味で捉えられている。
十年一日の如くのようなのっぺりとした変化のない日常に埋没することなく、日々、新たな気持ちで世の中なり、社会なり、人々に向き合わねばならぬという意味である。
止至善とは、至善の状態に一度入ったなら、そこに留まるように努力するということ。
至高の善の状態からさらに上を目指して一歩踏み出すということは、見かけは立派なのだが実際にはその意に反して、ただ単に道を踏み外すことにもつながりかねない。
一旦頂上まで登りつめてしまえば後はそこから一歩を踏み出すということは、下って行くより他ない道理である。
だから、至善の状態に踏みとどまれと。
「大学」にはまた、致知出版社の名前の由来ともなった「格物致知」の教えもある。
格物とは人間以外の物の道理、現代風に言えば、物理学や生物学、化学、医学などの根本原理、その探究。
致知とは人間の心の深くを覗き込んでその理を知ること。
現代の科学ではこの二つは別のジャンルということになっているが、東洋哲学の面白い点は格物の探究はそのまま致知に繋がり、また致知の探究はそのまま格物の理に繋がると喝破しているところにある。
「人間」と「自然」、この二つとも共に偉大なる大宇宙によって産みだされたものなのだから、その現すところ、根本は全く同じなのだという。
実に興味深い見解である。
だから格物を極めれば致知に至り、逆に致知を極めても格物に至るという。
そして「中庸」。
中庸は大部の著書で、従ってその論旨の幅も大変に広いのだが、一つだけ筆者が面白いと感じた論をここに挙げておくことにする。
それは「誠」の解釈である。
一般に誠と言えば、嘘偽りなく真摯に事に向き合うそのような人間的態度のことだとされていると思う。
もちろんそれも誠なのだが、中庸ではさらに一つ意味が加わって、天の誠ということが言われている。
これは自然の理法の在り方を説いたもので、例えば木の一生をとってみると、種の状態から始まって二葉に至り、そこから太い幹が現れ葉が茂り、丈も高くなって他を圧倒して群生する。
しかしそれもやがては寿命と共に病気やなにかで朽ち果てる時がくる。
そして不幸にも朽ちてしまった後には倒れた木のおかげで森に光が差し込むようになり、次の命を育む源となる。
さらに朽ちた木は土に還って栄養となり次の世代へと繋がって行く。
このような一連のいわば「盛者必衰」の理を以て天の誠とするのが中庸の解釈である。
つまり、勢いよく伸びてゆく若い時も、安定して咲き誇る壮年期も、老いさらばえて行く老年期も全てひっくるめて「誠」と言っている。
一般に儒教においては、現世における栄達の道のみが強調されることが多いが、中庸のこの誠の解釈はそれとはまったく違っている。
滅びゆくことも含めて、それをごまかしたりしない、それが本当の「誠」だという。
今流行りのアンチエイジングなどというのとはまったく違う人生観がそこにある。
若い時には若い美しさが、老いては老いての美しさと役割があるのだと中庸はそう教える。
そのときどきに応じた美と役割を求めるのが本当の「誠」だと。
最後に。
大学だったか中庸だったか記憶がはっきりしないのだが、お金と人生に関する著述で面白いのがあったのでそれを紹介して終わりとしたい。
一般にお金に困らないようにするにはお金の出入りを厳しく管理するのが一番と現代ではそう思われている。
でも東洋の古典の世界においてはそれはちょっと違っている。
古典の言うには、財を得たいと望むならまず人間を練り上げなさいと。
天に信頼されるような誠の人間となるならば、財はいくらでも後から付いてくると。
それを忘れて人格磨きより先に財の管理のみを行うなら、却ってそれは財を失うもととなる。
その順序を違えることなくきちんと守れば財に困ることはないのだと。
如何にも東洋古典らしい教えだと思う。
お金に困っている人がいたら、これを実践してみたら。
意外と上手くいくかもよ。
素晴らしい本を書いてくれた塩谷温先生、諸橋轍次先生、宇野哲人先生に感謝、尊敬。
その本を現代によみがえらせ届けてくれた致知出版社の皆さんに感謝。
今日も最後まで読んでくれたあなたにありがとう。