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Channel: 文芸 多度津 弘濱書院
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くたばれ著作権

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先頃、新聞で読んだのだが、文芸春秋社の社長さんが文庫本の図書館貸出について禁止を要請している旨の記事があった。
今日はそのことについて少し述べてみたい。

文学が最終的に目指すところって一体どんなところだろう。
それは文学を志す人、一人一人違うものなのだろう。
そのような各人の差異を認めつつ、しかしあえて大きななにかを問うとするなら、その一つに、より多くの人に読んでもらうということが文学本来の目的としてあるように思う。

図書館の存在によって、自分であえて買うまでではないけれど、借りてなら読んでみたいという層の人に本の魅力が届けられるのだとしたら、これは文学としてはとてもありがたいことなのだと思う。
ところが、そこに商売の思惑が入ると途端に話は違ってくる。
本が売れない原因としてタダ読みを奨励している図書館が悪いという話になる。

しかしそれは短絡的な思考ではないか。
本が売れて自分達がいい暮らしをしたいと言うのが先にくるのはどうも違うような気がする。
それは「文学」の話と言うより、より狭い「文学業界」の話になってしまっているからだ。
そんなセコイ論を立てるより、多くの人に自分が苦労して書いた作品が読まれることの方が本来は喜ぶべきことなのだと思わないだろうか。

筆者もまたこうして文芸を人生の愉しみとして提供している人間なのだが、筆者の場合、基本的に文芸を通して金をもらってはいない。
全て無償提供である。
著作権もいらないと自分では思っている。
だから引用剽窃大歓迎。
それは誰も払ってくれないという厳しい現実があるからだが、しかし当人の意識としてはそれだけでもない。

筆者の書く文章は、昔で言えば説法の類である。
だから基本的には、著作権は神様仏様にあると思っている。
読んでいる皆さんは、筆者が自分の頭で考えて自分の文章を書いているのだと思われているのかも知れないが実体は違う。
筆者が主にこの「新しいコミュニズムを目指して」欄でやっていることというのは、基本的には神様仏様から頂いた言葉をそのまま書き写しているだけなのである。
つまり筆者の頭の中に上から言葉が降りてくる、それをそのまま書き写している訳だ。
モーセがシナイ山に籠って十戒を書いた。
それは自分の言葉で書いたのではなく、ただ神様の言葉を書き写しただけというのと同じである。
筆者はもちろんモーセなどとはくらべものにならないくらいの小物のお笑い預言者なのだが。

余談だが、キリスト教ユダヤ教では神の言葉を伝える者を予言者ではなく預言者と書く。
未来をいい当てる予言者ではなく、言葉を預かる預言者と書く。
では、誰の言葉を預かるか。
言うまでもなく神様の言葉を預かるのである。

筆者は文芸のアマチュアである。
アマチュアリズムと文芸の相性の良さは、文芸が本来持つ毒であるその高い中毒性にあると筆者はそう考えている。
文芸とは元々遊びであって、従って誰も読んでくれなくても、一度自分の書いたものを世間様に見せる楽しみを覚えたものは止められなくなってしまう極めて中毒性の高いものなのだ。
筆者の場合もその毒に当てられた人間の一人である。
それは往々にして夢中になればなるほど、仕事や生活の全てを放り出してまでもその道一筋に生きてみたいと思わせる極めて危険なものなのである。

逆に言うとその中毒性の高さ故、金が絡まなくてもやっている方のモチベーションは保たれやすいという訳である。
これがアマチュアリズムと文芸との相性のよい所以だと筆者が思うところである。

今の日本を代表する文化の一つにゲームやアニメの世界があるが、あれも元々は体制の側からすると危険視されているものだった。
事実、筆者が子供の頃はインベーダーゲームの禁止令が学校で出ていたし、アニメや漫画などは胡散臭いものだとして親から読むのを禁じられてもいた。
それでも、国の援助などなく(逆に国からの精神的な迫害はあった)とも、ゲームやアニメは子供達の「面白い」を貪欲に取り入れることで世界の子供達を夢中にさせる一大産業として発展してきた。
しかしそれらは往々にして、生活そのものを食い破りかねない危険なものである。
実際、ゲームやアニメに夢中になって一日の大半をそれで過ごし、勉強や生活に差しさわりの出る子供達も筆者の周りには何人もいた。

文学も元々はそういうものである。
体制からみれば、大衆が身を滅ぼす危険のある毒性の強いものが文学なのである。
しかし、戦後には時代も変わったのか文学は本来のアウトサイダーからエスタブリッシュメントへと変わった。
そしてそれは金の成る木として大事に育てられるものとなった。

でもここらへんでもう一度、文芸もその恵まれた地位を捨てて本来のアウトサイダーへと戻ってみるのも一興ではなかろうか。
筆者もかつては文芸のプロを目指していたが狭き門に阻まれて泣く泣くアマチュアになった。
けれどなってみるとこれがすこぶる良いのである。
なんせ、昼間の仕事を持っているおかげで、経済的な安定を得ることができる訳で、そのおかげで好き勝手なことを書くことができる。
なにを書こうが誰の目も気にならず、ましてやマーケティングなど一顧だにしない。
これはかなりの快感である。

万葉集の詠み人知らずの名歌は著作権など主張しない。
世界に冠たる傑作文学を生み出した紫式部や清少納言も著作権なんて馬鹿なことをいったりはしない。
まあ、平安時代には著作権がない代わりに彼女らには宮廷勤めで得られるパトロネージュがあったようだが。
じゃあ、兼好法師や鴨長明はどうか。
彼らにはパトロンも著作権もないではないか。
親鸞上人の代表作「教行信証」はこれ全文過去の仏典からの引用で占められている。
しかしその上人が、著作権絡みで過去の仏教の師匠方から訴えられたという話は聞いたことがない。

著作権がないということは、引用なども全て自由になるということで、これは文芸全般にとってみれば、非常に有意義なことである。
豊かな過去の文献から、精髄のみを取り出してそれらを自家薬篭中のものにした上で新しい思想や論を生み出す。
著作権がないことで得られるこの文学的な生産性の高さに私達は今一度目を向けるべきだと思う。

江戸時代の国学者、本居宣長は昼間は医者をやっていて、その空いた時間であの古事記に関する大著作を仕上げていったという。
彼には研究者たるための経済的基礎として昼間の仕事があったのだ。
そしてそうまでして、全身全霊を打ち込みたいもう一つの偉大な夜の仕事があった。
これを知った時、私は自分のやっていることもあながち間違いではないのだ、何もプロになるばかりが能ではないのだと大いに自信になった。
もちろん本居宣長とは仕事の質、量いずれをとっても足りない私だが。

筆者の場合、説法系の論者ということで金とは縁のない文芸生活となっているが、昔から説法は売れないものだったようである。
と言うのも、英文学の小説の祖とされるフィールディングの本に牧師が説法集の出版を本屋に持ちかける話が出てくるが、牧師が本屋から言われるのは、「説法は売れませんよ、旦那」という返答が示されているからである。
今も昔も変わらない真実がそこにある。
人間の本能に反するような小欲知足を唱える宗教的説法は、金なんか取ったら誰も読んでくれない不人気思想なのである。

この点は先人達も随分苦労したようで、いつどこでどのようなタイミングで説法すれば人の心の中に言葉が入って行くのか、その探究はかなり深いところまで行っていたようである。
一つ例を挙げるなら、身近な人が死んだ時などがその絶好のタイミングだったようである。
かくして、我が国の仏法は葬式仏教となったわけだが。
たしかに身近な人が死んで虚しい気持ちになった時など、蓮如上人の白骨の御文章なんかが聞こえてくると本当に身に沁みるわけで。

最後に。
くたばれ著作権などと、少し過激な題を付けてしまった今回だが、まあみんながみんなアマチュアにならなくても私はプロという人もいてもいいとは思う。
もちろん、読む側が喜んで金を払うほど技能と才能にあふれている本物のプロならばということだが。
でも今の制度のように、一発当てた作家が大金持ちになって、その既得権益を守るために狭い世間をさらに狭くするようないびつなシステムはどうかと思う。
もっとぐっと落ち着いた、引用の自由なども含めた本当に文芸の未来にとって有意義な議論を進めてもらいたいと思うのは私だけだろうか。
皆さまはどうお考えになりますか。


今日も最後まで読んで下さってありがとうございました。

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