本日は複数の主題から織り成す短めの論の集成です。
以下に三つの論を。
源氏物語。
誰もが憧れる主人公の光源氏。
だけど、見方を変えると実は可愛そうな男だったのではないかと。
束の間源氏に愛され、現世の絶頂を味わった後、やがて源氏の愛が離れてゆくのを感じて、身辺に漂う無常の風を嗅ぎ分け次々と出家して行く女たち。
だが、仏教的に見ると、実はこのような女達の方が長い目で見れば幸せな人生を送っているということになるのではないだろうか。
少なくとも彼女たちは出家することによって人生で一番大切なものに出会っている。
それはいささかの揺らぎもない仏様、神様の世界にである。
ところが一方の光源氏はどうだろう。
次々と出家してゆく女達と違って、いくらいい歳になっても一向に悟る気配がない。
どころか、ますます燃え盛る三界の火宅での火遊びがひどくなってゆく一方である。
仏教では、現世の一番ど真ん中、いやむしろ辺土だろうか、ともかくそのようなところには五百年の長きに渡って、一切仏様を見ることのないそんな人達が集う場所があるという。
それを初めて読んだ時、そこは一体どんな場所なんだろうと私は思ったのだが、最近思うのは、そういう世界と言うのは光源氏のような人の住まう世界なのではなかろうかということである。
華やかで常に煌めいているのだが、大切な何かが決定的に欠けている場所。
もちろん、そのようなところに住む光源氏も仏様に会ってないことはないだろうと思うのだが、しかし会っていてもそれに気づかないのであろう。
そこが出家して悟りを得る女達との最大の違いである。
捨てられる女達と違って、一見、華やかさを身にまとって生涯それを手放さない光源氏は人生の勝者のように見える。
だけど、それは本当の勝利だろうか。
実は、見せかけだけの勝利ではないのか。
本当は勝つどころか、負け続けている。
それが光源氏の真の姿なのではないだろうか。
死ぬまで仏様のお姿を見ることができない男。
物語の中では死ぬ間際になって阿弥陀様と五色の糸を五本の手の指に繋げて極楽往生を願う源氏だが、果たして本当に往生できたのかどうか。
案外、死んでもまだそこら辺りを未練たらしく彷徨い歩いているのかもしれない。
まあ、さすがに死んでからそんな成仏できない情けない姿をさらしているととはあまり思いたくないのだが。
とにかく、死ぬ間際まで、一切仏様を見ることが叶わなかった生涯なのは間違いない。
それがいいことなのか、悪いことなのか。
考えさせられる結末ではある。
続いては、放蕩息子の帰還。
聖書に出てくる有名な逸話である。
昔々ある所にいた兄弟の内、兄は親の仕事を継がず、家を飛び出して放蕩三昧の生活を送る。
一方、弟は父のもとに残り、まじめに家業に精を出す。
そんなある日、家を飛び出して帰ってこないはずの兄が帰ってきた。
それを見た父親は、今まで弟に任せていた仕事を全てその長男にくれてやると言い出す。
これだけ読むといかにも理不尽な話に見えるが、この話の真に意味するところは一体どこにあるのだろう。
話は変わるが、仏教では、一度も戒律を犯したことのない者より、一度ならず二度三度と戒律を犯してその後に反省して帰ってきた者の方を、より位が上とするという伝統があるそうだ。
これは一体どういうことだろう。
一度も戒律を犯したことのない人と言うのは、どこかしら危ういところがある。
その危うさはこれから犯すかもしれないという危うさと、もう一つは戒律を犯さないで済んだことで現れる自負の念が強くなるという危うさだと思う。
特に後者の、己を頼みとする気持ちが強くなり過ぎる部分、仏教ではこれを一番忌み嫌う。
俺は一度も戒律を犯したことがないんだ、だから俺は偉いんだ。
それに比べると戒律を犯す大勢の奴らはまだまだ努力が足りない。
一度も戒律を犯さないと往々にしてそういう発想に陥りやすい。
仏教の悟りは、自己の努力のみで得られるものではない。
必ずそこには他者である仏様のお導きが必要となる。
努力だけではない、他力の要素と言うのが信仰の根本には厳としてある。
そこへ行くと、戒律を犯すような意志の弱い人と言うのは、己のどうしようもなさ、悪さ、弱さというのをいやと言うほど味わって来た人であるとも言える。
実はこのような点こそが、仏様から見ると信頼できるという風に映るのだろう。
自力の力のみでなく他力にすがらざるを得ないそんな弱さが却って好都合なのである。
ただし、行ったきりでなく、「反省して帰ってくる」という部分が大切な訳で。
放蕩息子の帰還と言うのもこれと同じ理屈なのではないかと私は思っている。
戒律は守るためにあると言うより、守れないことを示すためにあると、以前テレビである僧侶が言っていたのを聞いたことがある。
その時は、何をおかしなことを言っているのかと思った私だが、今こうして振り返ってみると、仏教の戒律とは、戒律を守りきれない弱さを自覚させるため、巧妙に作られた仕掛けなのではないかと思えてくる。
とにかく、一度は不埒な人生を送ってしまっても、反省して帰ってきたのなら、洋の東西を問わず、天の父は受け入れてくれるということなのだ。
他力の信心。
それが大事。
最後に。
将棋の谷川名人が昔、新聞に載せていた随筆で、今までの棋士人生の中で半分くらいは負けて「参りました」と頭を下げてきたという文章を読んだことがある。
それを読んだ時の私はまだ若かったので、あんな強い人でも人生半分は負けるんだと強く印象に残ったのを覚えている。
考えてみれば、棋士に限らず私達の人生においても、やっぱり半分くらいは人生、負けていると言える。
その時に謙虚な気持ちになって私達は「参りました」とちゃんと頭を下げているだろうか。
野球のリーグ戦の戦い方などを見ても分かる通り、長いシーズンを戦うには、勝つことも大事だがもっと大事なのは負けることである。
負けからあまりに不自然に遠ざかっているいると、今度は自然の摂理が働いて、チームは内側から腐りだすようになる。
勝ちが続く緊張感の中で、無理が祟ったその疲労が蓄積されて怪我人の続出に繋がったり、勝ちに対する意識がかなり甘くなって大味な試合を好むようになったり。
とにかく、どこかで揺り戻しが来る。
勝ちも不自然に続くと居心地の悪いものになる。
高い場所に上ると位置エネルギーが溜まって、下を見ると卒倒しそうになるのと同じである。
その点、底のほうに居るとそういう不安は皆無である。
それを防ぐには適当に負けるのがやはり、精神衛生上一番いい。
ちょうど、流れの中で負けの波が来たなと思ったら、まあ少しの抵抗も必要かもしれないが、逆に肩の力を抜いて流れのままに負けに身をゆだねるのが一番いい方法である。
中長期の視点で見ると、それが一番無理のない生き方となってくると思う。
自然の摂理は、一人勝ちというのを認めていない。
ピラミッドの頂上みたいなのはあるが、仔細に見ると、一番上に居るものでもやはり何等かの妥協であったり、全体への貢献、上に立つ者の不幸、不遇と言うのが課せられている。
何もなしに、無条件で上に立っている、そんな存在は自然界にはない。
そう見てくると、やはり我々一般人風情の勝ったり負けたりを繰りかえす何とも中途半端な生き方は、勝利のカタルシスこそないものの、考えてみればたいへんありがたい、気楽な人生であるとも言える。
どうせ人生、半分は負けるものならば、素直に今日も負けとこうではないか。
その内、勝てる日もくるだろう。
そしたらその次はやっぱり負けて。
本当の幸せってそんな中にあるんじゃないのか。
そんな中に自分達で作り上げて行くものなのじゃないのか。
負ける幸せ、人から叱られる幸せ、そんな幸せをこれからもずっと。
本日は最後まで読んでいただきありがとうございました。