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Channel: 文芸 多度津 弘濱書院
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我が半生を振り返りながら

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私は高校も大学も中退している。
何が悪かったのか今から振り返ってみると、一つにはそれまで他人様が敷いてくれたレールの上を何の疑問も持たずに走ってはいたものの、それ故に自分の人生をしっかりと生きていなかったということが挙げられると思う。

自慢する訳ではないが、大して勉強などしていなかったにも関わらず、私は学校の成績が良かった。
中学を卒業して次の進路を決める時、私は工業専門学校、つまり国立の工専に行きたかったのだが、オマエの成績で工専に進むのはもったいないと言われた。
元々、機械いじりに憧れていて、だから小学校五年の時のクラブ活動では迷わず放送部を選んだ私だった。
理由はあの複雑なスイッチがずらりと並んだミキシングコンソールを思う存分にいじれるからだ。

そんな私だったが、今でもそうなのかもしれないが、進路を決めるにあたっては本人の希望というより、本人の成績の在り方で進む高校を決める、そういう風になっていたのである。
だから、私の成績だと地域一番の進学校に進むのが妥当ということであった。
しかし、私が一番行きたくなかったのが普通科の進学校であった。
なんとなくそれまでのぱっとしない学生生活が次の三年間もまた続くのかと思うと憂鬱でたまらなかった。
そして何より嫌だったのは大学への進学が前提となっていることだった。
当時の私としてはそういうまどろっこしい手続きを踏んで進学して行くことより、早く社会に出て手に職を付けて金を稼ぎたかったのである。

その金で自由というものを満喫してみたかった。
それが私の当時の希望だった訳である。
そういう不満が根底にあったからだろうか、私は滑り止めで受けたある私立の学校から届いた特待生の話に興味を示すようになる。
そこは、誰もが行きたがらない全寮制の厳しいと評判の学校であった。
そして私はなんと、地域一番の進学校の受験を回避して、明らかにワンランク劣るその私立の学校に進学することに決めた。
これは私のささやかな反乱であった。
また全寮制のため、親元を離れて一人暮らしのような生活を出来るというのも魅力に映った。

でもそうやって入った学校だったが、元々勉強がそれほど好きだった訳でもない私の前に待ち構えていたのは大いなる失望と幻滅の嵐だった。
毎日、寮内で友人相手に派手に遊びまわり、夜中に寮を抜け出して酒を買いに行ったりと、ほとんど滅茶苦茶な寮生活を送ることになった。
とにかく、親元を離れて自由に暮らせるというその目先の快楽に溺れていた訳である。

しかし、そんな生活が長く続くわけもない。
しばらくすると学校側から厳しい処分が下るようになる。
しかし、それでも私は改心する気はさらさらなく、ますます派手に遊びまわる日が続くようになる。
苦節十五年、やっと手にした自由の味を、世間を知らない少年がそう簡単に手放す訳もないのである。
そしてある日、二度の停学処分となり、特待生の授業料免除も撤回され、次、問題を起こしたら退学という憂き目に遭う。

しかしその学校側からの警告は、当時の私の耳には、次、何かをやらかすとこの学生生活に晴れておさらばできると言う風に聞こえた。
今考えれば単なるアホである。
そしていよいよ私は最後の暴挙に出る。
常日頃から気に入らないと思っていた同級生に退学覚悟で殴り掛かっていったのである。
このことは学校で大問題となり、当然の報いであるが私は退学処分となった。

その後、すんなりと就職でもしていればよかったのかも知れないが、当時はまだ高校中退というのは本当に稀な存在であったので、なかなか受け入れてくれるところがなかった。
それに親の勧めもあって、大学は出ておいておいた方がいいということで、大検受験を目指して大学を目指すこととした。
ここでも私は社会の厳しい壁に直面して、「自分の人生」というものを全うすることはできなかった訳である。
結局、あれほど嫌だった大学を目指すはめになるのだから。

大検受験はなんとかクリアして、その後は予備校に入った。
予備校に入って最初の半年はまともに勉強していなかったのだが、最後の半年間は人生で一番勉強したのではというほど勉強した。
なんせ最初は偏差値が三十か四十位だったのが、最後には六十五から七十を射程に入れるくらいに飛躍したのである。
その時には勉強の楽しさというのがだいぶ分かってきていた。
そして、大学に入ると「本当の勉強」が出来るのだと未来に希望を持つようになっていた。

それで晴れて大学に入るのだが、あれほど憧れて「本当の勉強」が出来ると思っていた大学だが、何度か授業を受けるうちその希望は失望へと変わっていた。
大学で教える学問は、当時の私には中心を外して周縁をぐるぐる回っているだけの退屈な学問としか映らなかった。
後に、大学を辞めてから出会う神道や仏教の密教の教えに触れた時、これこそがずっと私が求めてきたものだと思った訳だから、大学の学問が退屈に映ったとしても無理はないのかも知れない。
今でこそ、大学の学問とは要するに「表の学問」で、密教や神道の本義である「裏の学問」を補足する補佐的ではあるが大切な学問であり、それに特化した面白味もあると理解できるのだが、当時はそこまで思い至らなかった。
ただただ、理想と違うと違和感だけが膨らんでゆく私なのであった。

結局、大学の授業には半年間通っただけで、後は学校に行かずに日がな一日下宿で細々と遊んで暮らし、たまにアルバイトに精を出すというように生活を続けた。
が、授業に出ていない訳だから、単位が取れない。
だから留年にになる。
しかしそのことは親にはひた隠しにして、平静を装って怠惰な生活を続けていた。

そして四年目の冬。
あの阪神淡路大震災が起こる。
それで一時、帰郷。
当時、住んでいた下宿は半壊だった。
それを機にまともに大学に通っていなくて単位が取れていなかったことを正直に親に告白して、大学を辞めることにした。

そのあと、私は作家を目指すようになる。
大学で文学部に進んでいたこともあったし、子供の頃から作文で褒められることも多かったのも作家を目指した理由の一つであった。
そして何より、あの自由の匂いと金の匂い、あくせくと働かなくていい、あの感じ。
その全てが憧れであった。
しかし生活は親掛かりで、自分では働かず、いつか売れて大金を稼げるようになることを夢見てただひたすら勉強と執筆の日々。
今思えばこれが私の一番の青春の日々であった。
遅きに失したが、ここでやっと私は「私の人生」を送ることができるようになった訳である。

話は変わるが、つい最近テレビで聴いた、斉藤和義さんの「遺伝」という曲にこんな歌詞があった。
「運がいいとか 悪いとか 神がいるとか いないとか」と始まり、「闘ってみたよ 負けちゃったけれど でもこの清々しさは何なんだ」と続く。
闘って負ける。
それが青春の特権なのだと思う。
作家を目指した私の戦いもきれいさっぱり敗北に終わった。
でも今になって思うのは、その清々しさはなんなんだという上の歌詞と同じ思いである。

今の若い人を見ていて心配に思うのは、こんな風に世間から叩きのめされて「負けた」経験のない人が多いように思うことである。
その昔、将棋連盟の宣伝コピーに「ちゃんと負けたことがありますか」というのがあってそれを見た当時の私はとてもドキッとしたことを思い出す。
当時の私は、神経症的とも言っていいほどに敗北に対して敏感になっており、ただひたすら自分一人が「勝って」いればいいと思って生きていた。
尾崎豊の歌ではないが、「僕が僕であるために勝ち続けなければならない」、そんな感じだったのである。
そんな私にとって、たった一度のことであろうと「敗北」はそれまでの人生全てを社会から否定されることと同義であった。

しかし、それもまた今になって思い返してみれば、全くの独りよがりの幻想であり、実際の社会とはそんな冷たいものでも厳しいものでもないのである。
結局、夢破れて私は就職するようになるのだが、そこから今に至る、人生の扉が大きく開くのである。
就職して経済の安定を得た私は、しばらくは仕事中心の生活を送っていたが、趣味の方も次第次第に色々なことに手を染めるようになる。

このブログもそうだが、考えてみると、昔の私の夢は今こうして立派にかなっていることに気付く。
二年か三年に一度、詩などの作品を発表しながら、合間ではエッセイなどを書いて楽しく暮らす、かつて作家を目指していた私はそんな生活を夢見ていた。
だがどうだろう、まさに今、そういう生活を私はしているではないか。
違っているところは、文筆を通してお金をもらっていないというところだけである。
ITの発達のおかげで、私の作家の夢は形を変えてかなった訳である。

しかし、売れるために己を曲げることも時には必要になるプロと違ってアマチュアというのは本当に居心地がいい。
わがままで書きたいことだけを書いていく、という私のスタイルには、経済の安定がしっかりとあるアマチュアこそがむしろ天職だった訳である。

他にも、カメラや合気道、書道、釣りなど、かねてより興味のあった分野に次々と手を出して、私の暮らしは本当に今とても充実している。
とくにカメラのレンズなど、昔子供の頃にはカタログを眺めるだけで手を出せなかったものが、自分の稼ぎがある今では手の届く存在となっている。
おかげでレンズのコレクションも随分と増えた。
これなども昔の夢がかなったことの一つである。
文房清玩の書道用品もしかり。
いい筆やいい墨、いい硯など、こちらの方もこれからのお楽しみである。
釣竿やリールなども、昔、憧れるだけだった良品が買える年齢になってきた。

今、高学歴のエリートと呼ばれる人達が、突然役者になったり、お笑い芸人になったりすることがあってびっくりさせられることがあるが、あれも考えてみれば、「自分の人生」を生きてこなかった優等生的な人生に対する欲求不満がある時突然に爆発してああいう選択になっているのではないだろうか。
自分の人生を生きるとはかくも難しいことである。
しかし、幸運にもその機会に恵まれたのなら、精一杯にその時間を生き切って、「ちゃんと負ける」ことが大事なのではないだろうか。
そしてそこから、予期しなかった「新しい本当の自分の人生」が始まるのかもしれない。
今の私がまさにそれだし。

そしてそういう経験は若い頃に済ませておくのがやはりいい。
中年期になってそういう病に罹ると、失うものが多すぎて社会的にも個人にとっても、とても危険なこととなる。
中年期とは一般に、家族とか会社とか地域とか背負っているものが多くなる時期なので、そこで青春の病に罹って全てを放り出してしまうと、社会にも家庭にも地域にも非常な損失がもたらされてしまう恐れがある。
まだそこまで行っていない独身の若い内に、そういう経験を済ませておくこと。
それが大事だと思う。
今日は少し長くなってしまったけど、同朋の皆さん、これからも私達を育ててくれたかけがえのないこの社会に少しでも恩返しの出来るよう、頑張っていきましょう。


本日も最後まで読んで下さってありがとうございました。

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