つい先日、筆者が所属している写真クラブの会合で、こんな意見が出ていた。
曰く、「香川で風景写真を撮るのは難しいのではないか」と。
その人のいうことには、色々なプロの写真家などが撮っている世界レベルの風景写真と比べると香川で撮った風景写真というのはだいぶ見劣りがするというのである。
なるほど、その気持ち分かるなあ。
たしかに香川にはモンブランもマッターホルンもない。
アルプス鉄道も走ってなければ、ヒマラヤのような神々しい高峰もない。
イグアスの滝もなければ、ナイアガラの滝もない。
でもそうやってあれがないこれがないとばかり言っていていいものかどうか。
例えば、植物はその一生を動かずに過ごす自らの生えてくる場所を自分では選べない。
風に吹かれるまま飛んできた種が落ちたところが、その一生を捧げる場所となる。
それよりはましとして、人間は動物だから気に入らなければ場所を移動できる。
がその人間も、生まれてくる時には、自分の生まれる場所を指定できないという現実がある。
だから、最近話題の本の題名ではないが、とりあえず「置かれた場所で咲いてみる」努力は最低限必要なのではないだろうか。
たしかに香川にはモンブランやマッターホルンはない。
が、その代わりといってはなんだが、飯野山や屋島ならある。
例えばその飯野山、よそから香川に来た人はこの山を眺めて不思議がるそうである。
こんな平地のど真ん中ににょきっと低い山がおっ立っている風景というのはよその都道府県にはあまりない風景なのだそうである。
屋島もまた独特の平べったい形が特徴で、本当に山なのかという際立った個性を見せてくれるのどかな里山である。
ぱっと目を引くような華やかな高い山はないが個性の際立つ低い山ならたくさんある。
それが香川独自の風景だと言えるだろう。
また香川県内ではないが、滝なら日本にも華厳の滝や那智の滝などがある。
いずれも単体の滝でイグアスやナイアガラと比べると迫力という点で物足りないものなのかもしれないが、日本の滝には日本の滝の良さがあるように思う。
そのような日本独自の良さを見極めて一つの芸術として成立させる技術と感性を磨くのが、ないものねだりだけではない「あるもの探し」の精神だと思うのだかどうだろう。
「ないものねだりをやめてあるもの探しを」とは、町興しの極意としてよく語られる言葉である。
しかしずっとその場所に住んでいると往々にしてその土地の本当の良さというのが分からなくなるということも、ままある。
そういう時は外国人の視点を借りてみるといいのかもしれない。
例えば、新宿や秋葉原と言った街を思い浮かべてみる。
それらの街は、日本的と言ってすぐ思い浮かぶような京都や奈良などの古都と違い、我々日本人から見るとどちらかと言えば近代的なあまり面白みのなさそうな街な訳だが、そのような街でも外国から来た人は都市の風情にアジアらしい混沌を感じるなどと言って喜んで写真に収めていたりする。
例えば、この前、テレビの「YOUは何しに日本へ」で見たのだが、日本に憧れている外国人が初めて訪れた東京の街をタクシーで走っていると、車窓の風景の一々に感動し、中でも「NTTドコモ」などという我々日本人から見れば何が面白いのか分からない風景に感動していたのが強く印象に残った。
まさに見る目が変わればこのようにありふれた風景の中にも見るべきお宝がザックザクということがここからも分かると思う。
夏目漱石はその著「吾輩は猫である」の中で、西欧近代の精神として、何でも自分の外側に問題の解決を求める悪癖があることを指摘している。
例えば、目の前にある窓が気に食わない、で窓を変える。
すると次はその窓から見える用水路が気に食わないと言う、でその用水路を撤去する。
すると次はその向こうに見える山が気に食わないと言い出す、でその山に手を付ける。
そんな風に次から次へと自分の外の世界にばかり文句をつけて、自らは何ら変わることなく際限なく外界を改変してゆくのが西欧近代の精神であるのだという。
そしてそれはどこまでいってもきりがない。
それと比べられる東洋の精神というのは、外の世界ではなく自らの内の世界を鑑みて反省するところから始まるものであると漱石は述べている。
窓が気に食わない、山が気に食わないというのではなく、その窓の本当の良さ、その山の本当の美しさに気付かない己を恥じるという訳である。
そうやって外の世界を無理矢理改変するのではなく、自らの内にある視点を変えると自ずから心は平静になる。
それが東洋の精神であると。
ついでに誤解のないよう言っておけば、西欧でも中世の頃はそういう「東洋的な」精神態度が主流だった。
カトリックの教えと言うのが、本来はそういう思想である。
それが転換されたのは近代に入ってからのことである。
例えば、風景写真において邪魔者とされる電線や電信柱。
これなども見方を変えれば、時と場合によっては作品作りに生かすこともできるのではないだろうか。
電線や電信柱は二十世紀の象徴である。
私達の直系の御先祖様が、これを引けば世の中から貧困が消えて、豊かな暮らしを享受することができると考えて全国に張り巡らせた産物である。
そのような御先祖様の思いがたっぷり詰まった電線。
そう見れば、なんとなく愛着が湧いてこないだろうか。
もっとも私の場合、それを華麗に撮って芸術的に見せるだけの技量がないので、作品の具体例をお見せすることができないのが情けないところだが。
誰か才能ある人が出てきてこの近代日本を象徴する風景を美しく切り取ってくれたりしないものだろうかと思ったりもする。
また、あと何十年か経つと、このような電線を張り巡らせた風景が反って珍しいということになるかもしれない。
時間差で価値が出てくる、それもまた写真の面白さの一つである。
だから、先のことはどうなるか分からないから、今の価値だけで写真を断罪するのはもったいないということでもある。
写真というのはシャッターさえ切れば何でも写る便利な道具である。
だから良い写真であるための文法というのは、あるようでなく、ないようであるといった微妙なものである。
なんとなく写真を多く見ていると分かるのだが、上手い写真と下手な写真というのは確かにある。
でも、その違いはと聞かれても抽象的な法則や理論で説明できるものではないのが事実。
じゃあ、法則は全くないのかと言われるとそれも違うと言うより他ない。
そのような繊細微妙な美の基準で成り立っているのが写真という世界である。
でその際の判断基準というのは、もちろん時代やその人の個性によって制限されるものなのである。
だから必ずしも絶対的なものでもなく、当然限界もある。
例えば、犬の糞だって写そうと思えば写せるのが写真である。
ただ、それを作品にする技量が未だ開発されていないというだけで、犬の糞が写真芸術的でないということには全くならない。
実はこのあたりにこそ写真の本当の面白さがある。
それこそ、非常に才能ある人が出てきて、素晴らしい犬の糞の写真を撮るということも考えられない訳ではないのである。
まさにないものねだりではなく、「あるもの探し」の精神こそが写真の醍醐味と言える。
世界に一つだけの花と言う歌があるが、あれと同じでどんな写真も世界に一つだけの花と言えるのではないだろうか。
それをわざわざ見比べて、こっちが上だ、下だと言うのは、何とも世界を狭くするだけの愚行だと思う。
筆者も写真の会合に出る時は、上だ下だとやられるが、それはそれで一つの参考意見というくらいのものなのだと考えている。
と言うより私の場合は、そのような貴重な意見を反映させるだけの技量がないだけなのだが。
とほほ。
どんな命にも無駄な命はないという。
それを参考に言えば、どんな写真にも無駄な写真と言うのはないと言うことになろうか。
下らない取るに足らない写真でも、それがあることで上手い写真がより一層上手く見えるのだとしたら、何かしらの役には立っている訳である。
香川県内で風景写真が撮れないのではなく、そう思い込むことで、目の前の風景の本当の美しさに気付かないことが問題の本質なのだろう。
現に、香川県内だけで撮られた素晴らしい風景写真の写真集も私は見たことがある。
日本に住んでいると、ヨーロッパの街並みなどを撮った写真がいかにも美しく見え、それに比べるといかにも貧相な日本の風景はとなることもある。
しかし、日本とヨーロッパでは気候も違うし風土も違う。
風も違えば、お日様の加減も違う訳である。
もっと言えば、向こうはパンと葡萄酒の文化だが、こちらは米に日本酒の文化である。
だから、ヨーロッパを撮る時のような洒落た写り方はしないが、撮りようによっては、日本ならではの粋やいなせと言った美しさを醸し出すことはできるかもしれないと考えてみる。
つまり日本を撮るなら、ヨーロッパを撮る時とは違う視点と思考、志向と工夫が必要なのである。
自らの足元にあるお宝に気付くか気付かないか。
ライカなどで撮られたヨーロッパの街並みが美しいと感ぜられるのと同じように、バカチョンやスマホで撮られた現代日本の風景もまた美しいと見ることができるかできないか。
撮る人の心一つ、視線一つ。
本当の問題はそれだけなのだと思う。
本日も最後まで読んで下さってありがとうございました。