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Channel: 文芸 多度津 弘濱書院
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人工知能と人類の未来

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最近、なにかと話題の人工知能。
その実力は急成長中で、囲碁や将棋で人間界最高峰のプロを負かすようになってきている。
一説によると、現在ある仕事の五割ほどは将来人工知能で置き換え可能とのこと。
だけど少し立ち止まって考えてみないか。
人工知能と我々人類は上手く共生できるだろうかとか、機械を使って私達が将来どんな社会にしたいのかという基本的なことを。

一つ、エピソードを。
ひろさちやさんの本で読んだのだが、昔ひろさんがインドへ行った時のことだそうである。
現地でおそらくは土木系の仕事だろう、それを手伝うことになったという。
手押し車に土か何かを乗せてある地点から別の地点まで運んでいる作業をしていたらしい。
見ると、インド人はその作業を四人でやっているという。
一人が荷物の積み込みで、一人が運搬、また別の一人が受け取りで最後の一人が荷物を下ろす。

それを見たひろさんは、そんな非効率的な作業の仕方はやめて、全行程を一人でやるようにしろと言ったそうな。
そうすると四倍速く仕事ができるだろうと。
そこで帰ってきたインド人の答えが振るっていた。
そんなことをしたら私以外の他の三人の仕事がなくなってしまうではないか、と。
それに速く仕事が終わると皆のやるべきこともすぐになくなってしまう、と。
それを聞いたひろさんは、日本流の効率主義にあまりにも馴染すぎた自分に気づき、一本取られたなと少し気恥ずかしくなったそう。

人工知能を巡る、一見すると薔薇色に見える未来の話に最も欠けている視点はこういう視点ではなかろうか。
そのひろさんは別の本でこうも言っている。
高い機械を買って仕事の能率化を図り、人員削減をするくらいなら、そのお金で人を雇って上げた方がいいと。
まあ、インド人の話の場合、少し極端な例になるのかもしれないが、しかしそこに含まれている一片の真実は今後充分検討に値すると思う。

働くということはただ単に効率だけでは測れない、人間の業を経済行為に昇華するという側面を持っている。
これも本で読んだことだが、日本理化学工業というチョークを作る会社で、そこは従業員に積極的に知的障害のある人を雇っているそんな会社がある。
そこの社長さんの言うことには、人が生きるその究極の目的として、自分だけの満足だけでない、他の人や社会の役に立ちその結果ありがとうと感謝される、他者への奉仕の心が満たされることが是非とも必要なのだと書いておられた。

とくに障碍者の方と言うのは生まれてこのかた、人の世話になることはあっても、人の世話をする機会には恵まれてこなかった人達がほとんどだそう。
だから、社会に出て働くということで人生において初めて得られた他者や社会への恩返しということにとても生きがいを感じて熱心に働くようになるという。
これは障碍者だけの話ではないだろう。
我々、健常者も皆多かれ少なかれこうした傾向を持っていると思う。
だから、人工知能が活躍して、自分達の社会での活躍の幅が狭められることをなんとなく不安に思う人も少なくないと思うのである。

また、人はそんなに単純作業が嫌いかと言えば必ずしもそうではないという側面もあるだろう。
人工知能推進論者はよく、人工知能による単純作業の代替化が進めば、人間は煩わしい非創造的な仕事から解放されて、もっと本質的な創造的仕事に没頭できると説く。
だけど、単純作業の中に本当に創造性の入る隙間はないのだろうか。

例えば、伊勢型紙にあるという鮫小紋という文様。
細かいものだと、三センチ四方に九百個もの小さな穴が開いているという。
ちなみに型紙全部にその数を数えると約八万個にものぼるとか。
気の遠くなるような作業である。
しかも、その小さな穴と穴とは繋がってしまうとアウトなのだそうで、そうなるとまた一からやり直しという。
作業はただ型紙の上に小さな穴をこつこつと開けて行くだけの単純作業だが、出てくる品物は単なる工芸品を超えた芸術品となる。

これなどは、単純作業の中に極めて高度な創造性が入っていることの表れだろう。
最も、これも機械にやらせれば、もっと早くもっと正確に仕事ができるということになるのかもしれないが。
でもそれでも、そんな便利な機械のなかった時代に作られた先人達の知恵と努力が詰まった結晶は、いかな単純作業といえどもそれを突き詰めていけば立派な芸術になることを教えてくれている。

また、カメラなどで言えば、今は露出もピントも機械が合わせてくれるようになっているし、デジタルカメラだと写してすぐに後ろのモニターで画像を確認できるので、単純な失敗というのは極端に少なくなってきている。
これなどは機械化の進んだ恩恵と言えるだろう。
しかし、田中長徳さんの本によると、最近若い人が撮ってすぐに結果が分からないフィルムカメラを面白がる傾向が出てきているという。
彼らは、フィルムカメラの特徴である、現像するまで分からないそのスリルを楽しみ、さらにはもう一歩踏み込んで失敗そのものを却って面白がるのだそう。

昔、ライカなどを使って、ここ一番失敗の許されない撮影をする時には、露出を何枚も変えて撮り、さらにはインスタントのポラロイドカメラで一枚撮って露出を確認するという作業をしていたらしい。
それに比べると今の若い人達はもっと単純に、失敗そのものを面白がって、キャッキャッ言っているという。
それを見て、長徳さんは、むしろ今の若い人達の方がフィルムライカの本質をよく分かっているなと思ったそうな。
そして、絶対に失敗しないぞとそういう昔ながらの癖が付いている自分の石橋を叩いて渡る的な撮影法を少し恥ずかしく思ったという。
人間とは、便利になったらなったで、またかえって不便を求めたりする不思議な生き物なのである。

最後に。
これまで書いてきたように表の社会というのは、このように機械の進出によってどんどん便利になり、そしてまたそれに反比例するように人に冷たくなって行くのかもしれない。
その時、チャンスが来るのが密教的意味における裏社会の存在である。
例えば、詐欺なり窃盗なり恐喝なり。
世間一般では犯罪とされているこれらの行為も、仏様の指示の下で行われるのなら立派な行となる。
詐欺などは最近は随分と複雑になって、大変入り組んだ構造の騙しの手口となっているそうだが、誠に頼もしい限りである。
そこで培った「だましの技術」はきっと仏法を売る作業において大いに役に立つだろう。

仏様と言うのは立場上、自らの手を汚すことができない。
それで仏様だけでも出来るきれいなことだけで世の中を変えていけるのならそれでいいのだろうが、人間と言うのはそれで変われるほど、単純にも利口にも出来てない。
そこで必要になるのが、悪の力である。
文字通り仏様の右腕となって、衆生救済のお手伝いをする。
現世ではあんなに嫌われていた犯罪行為もここでは立派な救済の行である。

クリスマスソングに、真っ赤なお鼻のトナカイさん、と言うのがある。
あれと同じである。
鼻が真っ赤なためにいつもいじめられて、馬鹿にされていたトナカイさんが、その真っ赤な鼻が夜道を歩くにはとても役立つとサンタさんに見いだされて、自らの鼻に初めて誇りを持てるようになりいきいきと世界を駆け巡るというそんな歌。
オマエみたいなろくでなしを産んで恥ずかしい、そんな子に産んだ覚えはないとさんざん酷評され、虐げられてきた犯罪者の人でも仏様の元にくれば、ちゃんと居場所がある。

即身成仏というのはそういうことである。
その身そのままで十分に仏様の役に立つことができる。
ただ注意すぺきは、仏様の指導なしに無軌道に振る舞われる暴力や犯罪は単なる暴挙に過ぎないということである。
裏社会というのは来る人を温かく迎え入れて、ちゃんと居場所と仕事を提供してくれる暖かい社会である。
表社会の冷たさにはじき出された人をスカウトして、教育し再生して送り出す。
皮肉だが、やれ人工知能だロボットだと、表社会が人に冷たい方向に向かえば向かうほど、裏社会は栄えるのだろう。
我々のような人間にとってはそれはまたとないチャンスである。

最後は少し話が逸れてしまったが、今一度、私達がどんな社会にしたいのかを、人工知能の進出がそれを考え直す機会を与えてくれているように思う。
一人一人が自分の居場所を持って、いきいきと輝ける社会。
そんな社会を作るため、使えるものは有効に使って。
本来は人工知能の研究者もそう思って機械の開発に取り組んでいるはずだろうが。
しかし、それを受け止める現実はそう単純には進まず、最初の志と違う冷たい方向に進んでしまうこともある。
そうなった時、どう軌道修正できるか。
そこに人間の知恵の出番があると思う。
機械にも人間にも共に温かい社会。
そんな社会を目指してこれからも進んで行こうではありませんか。


本日も最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

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