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Channel: 文芸 多度津 弘濱書院
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雑感

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平成最後のブログになります。
本日はエッセイを三つ。

趣味のカメラなのだが、時々通勤時にも持って行くことがある。
しかしどういうわけか、カメラを持ってない時に限って空がとても美しかったり、町の風景が魅力的だったりする。
やっぱり毎日持っていかなければならないのかと反省していると、ふと頭の中にこんな言葉が浮かんできた。
「世界は記録できないからこそ美しい」。

実際、毎日カメラを持っていったところで、世界の全てを写し切れる訳でもない。
どんなに頑張っても、やっぱりカメラのシャッターを切れない時間は必ずあるわけで。
例えば、仕事中はカメラに触れないわけだから、その仕事中に魅力的な被写体が現れたらもうお手上げである。
かくして、世界を一瞬の切れ目もないまま写し取ろうという魂胆は最初から破綻していると言える。

百歩譲って、仮に世界をくまなく写し取ることができたとしても、そのような写真はただだらだらと長いだけで退屈極まりないのではないか。
ところが写真にすると「退屈な世界」も肉眼で見ると途端に美しく見えてきたりするから不思議だ。

考えてみれば人間の眼というのは本当によくできている。
見たいところだけをアップするわけでもないのにアップしたかのように見ることができ、露出の明暗差もほどよく解消してくれる。
これがカメラのレンズだとどうだろう。
レンズを変えない限り寄ったり引いたりはできないし、また自分で歩いたり下がったりして寄り引きを作らないとレンズは反応してくれない。
また明暗差も肉眼で見るよりはっきりと現れるし。
だから逆に言うと優れた写真とは、このようなレンズの特性を逆手にとった、人間の眼ではなく「カメラの眼」に徹した画作りをしている作品だとも言える。

だから「カメラの眼」に寄せてみれば退屈と映る世界を「美しく」見ることができるのは、肉眼に限ると言える。
この場合、眼だけで見ているのではなく身体全体で見ているのが特徴である。
眼だけでなく、身体で丸ごと風を感じ、空の高さを感じ、刻々と移り変わる世界=自然の諸相をまさしく体感している。
それが一つは「カメラの眼による死んだ退屈さ」と程遠い理由なのかと思う。
つまり、風景が「生きている」のだ。

つまるところやっぱり、世界は記録できないからこそ美しいのである。
カメラを持って行かないから美しい風景が出てくるのではなく、初手から勝負は決まっていて、カメラ以前の肉眼での風景が「美しかっただけ」とも言える。
それが意識の中で前面に出てくるかどうかだけの問題。

というわけで、小さな悲劇を嘆くのはもうやめよう。
美しいものはそのままに。
肉眼だからこそ感じるその美しさ、それを大事にしようではないか。
そしてそれは思い出の中でさらに美しくなってゆくのだから。
遥か昔、視覚にまつわる記録の手段が何もない頃には、そうして父母から子へ、思い出の中で神格化された「この世にはない美しさ」が言葉と共に「伝えられて」行ったに違いない。
それは現実の風景を超えて何か「美の根源」というものに触れる体験だったのだろう。
イデアと言ってもいいのかもしれない。
ちなみに、絵というのは「半分は頭の中で描くもの」というらしい。


先々週のエッセイ「美で倫理を制す」の論考の補足。
歳を取ってより自由になるという観点の考察。
例えば、がんになると言うのも細胞レベルで考えれば、人間の体内で生まれてきた細胞が人体に役立つ働きをせねばならないという「束縛」から自由になっている証拠とも考えることができるわけで。

先日亡くなられた樹木希林さんは、がんになっても特にこれという治療をすることがなかったそう。
手術や抗癌剤というがんと闘う治療は選択しなかったそうだ。
となるとここには二重の意味での自由があることになる。
一つは先に挙げた細胞レベルでの自由。
そしてもう一つは、そんな細胞の自由を許容して、無理に闘うことを拒否した人間意志の自由と。

若い頃に病気になると、どうしても治さなければならないと思ってしまう。
しかし歳を取ってからの病気は治るものと治らないものがあるわけで、そこでの対応が若い頃とは違ってくるのである。
例えば、池江璃花子ちゃんが闘病するのはいいのだが、もう死期が近づいている人が無理を推して闘病するのはだいぶ意味が違ってくると思う。
老人の場合、もうそろそろ死んでもいいかなと特に治療もせず自然に任せるという選択肢もあるのだろう。

敢えて闘わないことで自由を獲得する。
希林さんの生き方はまさにそうであった。
著書などを拝見すると「死ぬ時くらい自由にさせてよ」などとあって、無理してがんと闘わない生き方はまさにそれなのだと思った。

しかしこれも人によって違うだろう。
どうしても生きたいと思って闘病するもよし。
しかし、その場合、強すぎる生への執着が大事なものを見えなくする危険もあるわけで。
病気=悪い物という思い込みが、病気によって得られる価値の多様性への気づきだったり、弱い者や虐げられる者、小さき者への気持ちに寄り添えるという「自由」が全く遮られてしまう危険性がそれである。
実際、病気になった人に聞いてみると、病気になってよかったと言えることは、以前にも増してそのような些細な日常、小さな幸せに気付くことでより豊かな人生を送れるようになったことだという。
そこにはつまらない我執から自由になったより人間らしい生活があると言える。

病気は時に人生に豊かな実りをもたらしてくれる。
これは病気を敵視しているだけの時には気付かないことである。
実はそこにとても大事な人生の秘密が隠されているのであろう。
病気を前にして今一度、人生における本当の自由とはなにかと考えてみるのも悪いことではないと思うのだが。


最後は朝日新聞の近藤康太郎さんの記事からの考察。
都会育ちの記者さんが、突然思い立って農業や狩猟を始めたエッセイ。
これがけっこう面白くて読んでいて考えさせられる。
この前は罠猟で捕まえた鹿をその場で絞めて皆で食べるという話が載っていた。
鹿はとどめを刺される時、何とも言えない悲しそうな声で鳴くそうで。
当然、生き物の死から遠く離れた地点で暮らしている現代人には罪深い後悔が残ることに。

が、そうして殺した鹿の肉を皆で食べるとこれがまた美味しいそうで。
殺す時に涙して可愛そうだと嘆き、己の罪深さをあれほど憎んでいても、いざその肉を調理して食べると幸せな笑顔になるという矛盾。
しかしこの偉大なる矛盾こそ私達人間の生命の本質なのだと思う。
残酷だけど美味しい。
哀しい哉、真実。

そう、我々は何かを殺さなければ生きて行けない存在である。
例えベジタリアンになって動物を殺さずに生きていけるとしても、では植物ならいくら殺しても罪にならないのかと問われたらどうするだろう。
ベジタリアンが好んで食べる野菜も元は土の中で生きている「命」ではないか。
つまるところ私達はどんなにあがいても「何かを殺さなければ」生きてゆけない存在なのである。

キリスト教ではそのことを人間の「原罪」と呼んだ。
つまり人間とは生きているだけでもう「罪」を限りなく犯している存在なのである。
この罪の償いは殺してしまった命に直接報いることはできない道理だから、何か違う形で恩返ししていかねばならないのだろう。
例えば、より多くの人が幸せに暮らせる社会を作る。
自然にも優しい持続可能な社会の在り方を模索する。
生物の多様性を守るべく奮闘する。
恩返しの仕方は人それぞれ。
これだけの罪を日々犯しながらも、大きな何かによってせっかく生かせてもらっている小さな私の命、それを社会のため自然のため、宇宙のため、どう使うか。
そこにその人の品格と覚悟が顕れる。

最後に。
学校では命を活かす教育というのは盛んに行われているが、命を殺す教育というのはあまりやってないように思う。
しかし近藤さんの記事を読んでいると、時には生き物を殺す教育と言うのも必要なのではないかと思えてくる。
今、社会が発達して、自分の手を汚さずに美味しい物がいくらでも食べられる社会になっている。
例えばグルメと称する人達が、味覚だけを追求してあれが旨い、これが旨いと述べ立てて得意になっているが、その根本にある食べ物の命の存在に目を向けている人がどれだけいるだろう。
これは自戒の意味も込めてそういうのだが。

スーパーやデパートできれいなパックに入った和牛のサシの色に感嘆する時、私達の眼にはその牛が殺される場面は目に入ってない。
しかしこのことは教育上、何かしら問題があると考えるべきなのではないか。
本来はその牛が殺される場面もちゃんと見ておく必要があるように思うのは私だけだろうか。
それをちゃんと見るからこそ食材に関する「感謝の念」も生まれてくるように思うのだが。

私は肉を食べてもいいし、グルメを気取っても別にいいと思っている。
しかしその根本には食材に対する感謝の念がなければならない。
それ抜きで美味しさだけが独り歩きする時、我々は間違った道に入り込んでしまっていると言えるのだろう。
己のために犯す罪の意識と食べることの悦びと。
その二つを日々の生活の中でいい具合に均衡させることの意義を今、改めて考えるべき時なのだと思う。


本日も最後まで読んで下さりありがとうございました。
次に会う時は令和ですね。
皆さんよいお年を。


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