先般、大阪で震度六の地震が起こった。
被害者の皆さんには改めてご冥福とお見舞いを申し上げたい。
さて、そこで今話題になっているのが小学校のブロック塀の問題。
不幸なことに塀が倒れ、その下敷きになって小さな女の子が犠牲になった。
何とも痛ましい事故である。
そのことで学校や市の対応に問題があったのではと追及が盛んになっている。
いつの頃からだろうか。
自己責任という言葉が一人歩きして、本来なら社会全体が請け負うべき重篤な責任が具体的な個人にのみ責任が背負わされるようになったのは。
こういう事件が起こると決まって、行政の対応が問題となり犯人捜しが始まる。
本当に痛い目に遭っている遺族の方がそういう行動に出るのは理解できるのだが、最近の風潮はその被害者側に立った、いわば「絶対の正義」に乗っかる形で関係のない人達までが、個人を槍玉に挙げて責任者を糾弾するようになっていることである。
筆者が子供の頃は、まだそうでもなかった。
こういう事件が起こると、子供の私が誰が悪かったのかなどと生半可な意見を口にすると、決まって親などが「まあ、ああいうのはなかなか難しい面もあるのだから。それに担当の人も一生懸命やった結果だろうし。」などと加害者にとって猶予のある表現で諭されたものである。
その頃はまだ、責任は個人ではなく社会全体で負うべきものという共通認識があって、今とは違って社会全体に心の余裕があったように思う。
勘違いしないで欲しいのだが、私は事故の責任を明らかにするのが必要ないと言っているわけではない。
今回の事故を教訓に足らない部分の検証はもちろん必要なことだし、積極的に行われるべきだろう。
歴史を見ると人類はそうやって一つ一つの課題に向き合うことで社会全体の安全を進化させてきたのだから。
ただ、個人責任と言うのは、糾弾する側にとっては百パーセント安全な側に身を置くことによって本来なら自分にもあるかもしれない責任に目をつぶって、当該の個人にのみ責任を押し付けて反省を済ませてしまうという悪弊があることにわれわれはもう少し留意すべきかと思うのである。
イエスキリストは、姦淫の罪を犯した女に石を投げる群衆に向かって、「この中で自らの身を省みて、かの女に石を投げることのできる完全無欠な人間はいるのか」と問うた。
そうすると石を投げる者は一人もいなくなったという。
今、私はこの問題に対しても同じように思っている。
果たして、この中で担当の責任者を責めることのできる資格のある人は何人いるのかと。
それともう一つは、こういう問題が起きた時のコメントの仕方である。
客観的な立場に立って物を言うのはそれはそれで結構なのだが、時にその立場に立ったコメントは冷たさを伴う。
そうなる前に、もし自分がその立場だったならと考えてみるのはどうだろう。
例えばもし私が市や学校の責任者の立場だったら。
現場から、これこれこういう耐震構造の建築を施しておりまして、現在の最新の知見に照らし合わせてみても十分に対策は練られているものと思います、などと流暢に説明されたら、「ああそうか、それは素晴らしい。いい仕事をしてくれましたね。」などと言って、それ以上過剰に疑うことはせず、隠された欠陥には気づかぬように思う。
管理職と言うのは往々にして生の情報に疎いものである。
組織の制度上、それはどうしようもないことである。
何故なら、肝心の情報を握っているのはいつも「現場」なのだから。
人間の認識というのは多かれ少なかれそういうものではないだろうか。
それに地震対策自体が未だ完全なものでないこともここで明確にしておかなければならないだろう。
筆者は学生時代、阪神淡路大震災に被災した者だが、その当時まで地震対策の基準とされていたのは関東大震災だった。
しかし阪神淡路大震災以降は、関東大震災に代わって阪神淡路大震災が地震対策の基準となった。
さらに東日本大震災が起こると今度はそれまで全くノーマークだった津波の問題が地震対策の新たな課題となった。
そして今度の大阪地震。
ここでは学校の耐震化の基準外でこれまでノーマークだったブロック塀の問題が焦眉の急となっている。
このように時代の変遷によって、常に地震対策というのは変わってきているものなのである。
完全を目指して努力することももちろん大事なのだが、一方では人間のやることに完全はないという諦めも、どこかでしっかりと確認しておく必要があるだろう。
津波対策で十メートルの堤防を作っても、十一メートルの波が来たらどうなるのか。
さらに波が来なくても海と住民との距離が開いて豊かな自然が失われる危険性はないのか。
自然災害とは常にこうして目の行き届かないところにまるで裏を取って攻撃してくるかのよう襲ってくるものだという認識は必要だろう。
例えば、病の流行の変遷を見るとそのことはよく分かる。
戦後すぐの頃は結核などの感染症が死の病の代表的なものだったが、抗生物質の開発によりそれは克服された。
さらに栄養状態が良くなってこれで安心かと思いきや、今度は生活習慣病の高血圧や糖尿病、がんなどが社会の前面に現れるようになる。
まさに浜の真砂は尽きずとも、である。
さらに決定的なのは、これほど医療が発達した今もなお、人が死ななくなったという話はどこからも聞こえてこないという点である。
おそらく、こればっかりはどうしようもないのであろう。
そして死が避けられないものなら、当然、病の種も尽きることはないのである。
つまり、この世に完全というものはない。
客観的な立場から自らは安全な場所に身を置いて他を批判するのは気持ちのいいことなのだろうが、その気持ちよさに実は大きな罠が潜んでいるように思う。
例えば学校の先生の問題。
教師の立場というのもここ何年かでだいぶ脆く弱くなってきているが、これも現場の苦悩に耳を傾けず、「客観的立場」から無責任な弾劾を経て現場に無理を強いてきた世間の風潮にそもそもの原因があるように思う。
これは余談だが、筆者が小学五年の頃、ちょうど生意気になる盛りの頃だが、全く怒らない若い男の先生が担任になった。
生意気な悪ガキが揃っていた我がクラスはそれまで厳しい女の先生だった時はおとなしくしていたのだが、その優しい担任の先生に変わった途端にクラス全体が荒れ始めた。
子供は常に先生の顔色を見ている。
そしてどこまでなら許されるのかその加減を常に探っている。
大人が思っているより子供は敏感で賢い。
だから、怒らずに指導するのは理想なのだろうが、現実はそれとは違っていたわけである。
事実、この先生、何しても怒らないぞと見るや、クラスは雪崩を打ったようにアナーキーな自由の追及へとひた走ったのだから。
こうなるともう誰も止められない。
今、教育を批判的に語る人の中にこういう現場の難しさ、微妙さ、さじ加減の妙をちゃんと知って感じて物を言っている人が何人いるだろうか。
大方はそういう現場の苦悩を聞くに堪えないめんどくさい話として横にうっちゃって、物を知らないことを逆手にとって好き勝手に的外れな注文を現場に強いて得々としているだけなのではないか。
現場の人間は完全無欠なスーパーマンではない。
私達と同じ不完全な人間に過ぎない。
そのことをもう一度確認すべきだろう。
最後に。
レオレオニの絵本「スイミー」ではないが、私達不完全な人間が完全を目指すなら、小さな個人がお互いの長所を持ち寄って、お互いの短所をカバーして行くより他に方法はないように思う。
そうして寄り集まって大きな存在となり、社会全体の幸福と発展を目指して互いの絆を深めながら日々生きて行くより他なかろう。
集合知と言うやつである。
そうやって大きな「魚」となってもそれでもまだ、「完全」には程遠いのかもしれない。
だから一抹の諦めも一方では必要なのだ。
諦めとは元々明らめるという意味だったらしく、物事の真理を完全に明らかにするという意味でもあるそうだ。
物事の真理を知ると己の不完全さ、人間の不完全さがよく分かって「諦める」ことができるようになる訳である。
それと一度失敗した人を安易に切り捨てないことだろう。
と言うのも、人間と言うのは先の耐震化基準の変遷と同じで、失敗の数の多い人ほど「豊かな経験」を持っていると言えるからである。
誰でもそうだと思うが、失敗を糧に新たな課題が見つかるのであり、それがまた経験となって人は深みが増して行くのである。
ところが、たった一度の失敗で首を切られるとそれ以上の進展がない。
ましてや社会全体で積み上げて行くものもなくなってしまう。
これは社会にとっては大きな損失だと言えるわけである。
だから失敗に対して何らかのペナルティーを与えることは必要だろうが、安易な首切りは止めたほうがいいように思う。
もっともそこら辺りのところは、よく事態を心得た人事の専門家の判断もあるから難しいところではあるが。
とにかく、絶対安全な立場に身を置いての現場を省みない「強すぎる批判」をする前に、物事を自分ならどうする、どうできた、或いはどうできなかったか、考えることから始めてみようではないか。
今日は最後まで読んでくれてありがとうございました。