本日は今話題の関西学院大学と日本大学のアメフト問題について。
既に皆さんテレビなどの報道で知っておられるだろうが、日大のディフェンスの選手が関学のクォーターバックの選手に不正なタックルをして怪我をさせるという事件があった。
被害にあった関学の選手には改めてお見舞い申し上げたい。
一方、加害者側の選手の会見だが、知っていることを全て正直に話した立派な会見だったと思う。
この選手のやったこと自体の罪の償いは免れないであろうが、それ以上に立場の弱い選手の悲哀というものを感じる会見だった。
その意味において、一選手をここまで追い込んだ日大首脳陣の罪は重いと言える。
そして問題はその日大の首脳陣の対応である。
一貫して罪の否認を行っている。
個人的には実に見苦しい対応のように感じているが、しかしそういう偏見のみでこの事態を見つめていると、そこに隠されているもっと大事な何かを逃すかもしれないとも思う。
俗に盗人にも三分の理と言う。
声高に罪の追及をするだけでなく、そこに拾うべき何かがないか検証することも大事かと思う。
日大首脳陣の言い分はこうだ。
相手を潰せと言うのは、そういう気で向かって行けということだったと。
そしてこの選手をここまで精神的に追い込んだのは、将来的にこの選手にチームを任せる位置に引き立てるためであったと。
なるほど。
選手の精神的な成長のため、あのような暴挙に追い込んだというのか。
実はここには一理ある。
つい先日愛読の雑誌で読んだのだが、禅の修行においては精神的に四つの段階を踏んで人を成長させて行くということが書いてあった。
その第一段階は自己の否定にあるという。
とにかく最初は賢しらな自己を徹底的に否定することから修行は始まるという。
そして次にはその反動を利用して正反対に自分のみの天下のように自由に振る舞うことへとつなげるそう。
さらに進むと今度は己も周囲もともに否定する全否定の域に達することへと追い込んでゆくらしい。
そして最後に辿りつく境地は相手も自己も共に活かす道であるという。
このことを考えると、選手の成長のため敢えてあのような暴挙に追い込んだことには実は深い意味があったと言えそうだ。
修行の四つの段階を考えた時、日大首脳陣のやっていることはあながち的外れでもないと言えるからだ。
ここら辺りのことは密教の一番深い部分でもあるのであまり表だっては言えないと言うこともあるだろう。
しかし、ただ一つ計算違いがあったとするならば、怪我人を出してしまったことである。
このような極端な精神的追い込みと言うのは、仏様の管轄で言えば不動明王的なものだと言えるだろう。
最近、この不動明王的なものと言うのは概して評判が悪い。
まあ、もともと昔から評判は良くないのだが。
しかし最近の評判の悪さは少し神経症的な過敏さで過剰反応とも言えるかもしれない。
不動明王的な追い込みの技術においては、怪我人や死傷者を出さないことがむしろ一流の証である。
私も若い頃は随分とお世話になったものだが、あわや自殺寸前というところまで追いつめられると思うと何かしら不思議な事件が起こったりして寸でのところで惨事は食い止められるのである。
今思えばあれはお不動さんの愛だったのだなと思う。
決して取っつき易くはないし、甘い言葉も微塵もないけれど、本物のお不動さんというのは愛と慈悲に溢れた頼りになるお方なのである。
翻って日大の首脳陣はこの域まで達していたのかと。
この点は改めて問われなければならないことだろう。
最近の風潮としてパワハラやなんだかんだと称してこのような地道な修行の苦労を蔑むような空気が広く世間に漂っているのは誠に残念なことである。
きれいきれい、褒めて褒めて褒め上げて、ただ甘い飴を舐めさせるだけで人間を治めることができるのだろうか。
私はそうは思わない。
やはり昔から言う通り、この複雑怪奇な人間という化け物を治めるには飴とムチの両方が要るように思う。
理想は飴だけで人を治めることなのだろうが、残念だがやはりこれが真実かと思う。
話は変わるが、自然界に目をやると、絶滅した狼のもたらした影響と言うのが今問題になっているという。
狼がいなくなったせいで、鹿などの生き物が増えすぎて却って生態系のバランスが崩れ、大事な農家さんの畑が荒らされたり、山の植物が食べられ過ぎたりして困った事態に至っているという。
嫌われ者の狼がいなくなれば平和で豊かな世界が待っていると単純に考えた人間に対する罰なのであろう。
一見すると自然システムに迷惑をかけているだけにしか見えなかった狼だが、いざいなくなってみると生態系において占めていたその役割の大きさに改めて気づかされるという訳である。
不動明王的なるものも、この狼的なるものに似ていると言えるかもしれない。
一見するとただのはた迷惑な悪の権化でしかないお不動様的なものだが、なくなってみるとその存在の大きさに改めて気づかされるのではないだろうか。
もしお不動様的なものがないと、人間は際限なく欲望の追及に血道を挙げ、ほんの少しの辛抱も厭う底の浅い人間ばかりが跋扈するようなことになりはしないか。
そうなってから困るのは私達人間なのである。
つまりその報いは最後にはそうやって自分の所に全て還ってくるのだ。
私自身、若い頃そのような厳しい修行を課せられたおかげで、以前の軽佻浮薄で底の浅い三日坊主だった私が少しはましな辛抱強い人間に生まれ変わることができた。
ただやっている最中は、なんで自分だけこんな目に遭うのかと不満たらたらであったが、その修行が済んでみて改めて今から当時を振り返ってみるとあれがなかったら随分さびしい人生を送っていたのだろうなと心の底からそう思うのである。
そして感謝の念が湧いてくる。
そう、この感謝の心、こういう感情も以前の私にはほとんどないものだった。
それを知ったのも、あのほとんどいじめやパワハラと変わらないような執拗な精神的攻撃を受け続けて得られた功徳なのである。
いじめやパワハラはもちろん悪いことなのだが、使いようによってはこのように人格形成において極めて重要な役割を果たす。
仏様はこのことをよく御存知で、これと見込んだ人間にはこのような試練を課す。
その仏様の意を受けて事態の前面に立って悪の指揮棒を振られるのがお不動様なのである。
それはやられる側から言えば本当に嫌で嫌でたまらないことなのだが。
しかしそれによって得られるものは大きい。
今、そのような功徳をもたらすお不動様的なものが、何か蔑まれ大事にされていない、そのことに私は一抹の危惧を覚えている。
本当にそれでいいのだろうか。
ちょっと何かあっただけで大げさに騒ぎ立て、少しの我慢も利かないおバカな人間だけがやたらに増えてゆく。
そんな世界に私達は住みたいだろうか。
それともう一つ、お不動様は実は数ある仏様の中でも屈指の情報通でもあって、物事の本質を見抜く上質な情報をお持ちの方でもあることも言っておかねばならないだろう。
がその伝え方はかなり乱暴で、私などは未だにそのやり口に慣れることはないのだが。
しかし後になってから冷静に考えてみると恐ろしいくらいお不動さんの言う通りになっていることに愕然とするのである。
良薬は口に苦しとはまさにこのようなことであると思う。
最後に事件の話に戻れば、怪我人を出したことや、故意の不正タックルを事実上容認したことは厳しく問われなければならないだろう。
しかし、一方では選手の精神的な成長のため首脳陣が嫌われ役を買って出ることの是非は、また別の問題として論じられなければならないのかもしれない。
見方によっては様々な深いものを私達に示してくれる事件なのである。
今日も最後まで読んでくれてありがとうございました。