最近、高齢者の車の運転による逆走や暴走の事故が増えている。
そこである程度の年齢になると免許返納が必要になると思うのだが、そのような社会の実現に向けて課題はたくさんあるように思う。
今日はそれを見て行こうと。
まず第一に東京や大阪のような鉄道網の発達した都会を除いて、筆者が住んでいるような地方では、町の設計自体が車がないと生活できないようなつくりになってしまっていることが一つ。
昔、徒歩や馬などが交通の主要な手段だった頃の町の作りは単純で、どこか一つところに拠点となる町を置いて、そこに行けば買い物から行政手続きまで一つの徒歩圏内で全ての用を足すことができるようになっていたようである。
しかし今は違う。
行政などはまだ昔の名残か割と一つ所にまとまっているところが多いのだが、買い物などの商圏は車社会の発達に合わせて駐車場の多く取れる郊外に店を構えていることがほとんどである。
しかし最近、高松などでは、地方都市としては珍しくまだまだ商店街が健在なのを利用して市長さんがコンパクトシティ構想なるものを打ち出してきたりしている。
これは市の中心部に高齢者用のマンションなどを建設して、歩いて全ての用が足せるような生活が可能になるべく町の機能を集約していこうという試みである。
実際、商店街には最近、行政施設や病院などが多く新設されていて、また徒歩だけでなく移動を助けるバスによる交通にも市は力を入れている。
このような車を使わないで生活できる町の作りを復活させることがまずは一つ戦略の要となるように思う。
次に考えるのは、免許返納により車をなくした高齢者の移動手段としてのタクシーの活用について考えてみたい。
筆者の町もそうだが、駅前なんかに行くとタクシーが何台か止まっていて、来るのか来ないのかよく分からない客を待ちくたびれて退屈そうにしている運転手さんの姿をよく見かける。
なんせ地方は車社会だから、大抵の人は自分の車があるか送り迎えの車があるかで、タクシーを利用する人は本当に少ない。
しかしあの退屈そうにしているタクシー、あれ、なんとか上手く活用できないものだろうか。
年金暮らしのお年寄りに話を聞いてみると、大体移動手段に皆困っている人が多いようだ。
しかしだからといってタクシーを積極的に利用する人はほとんどいないみたいである。
理由は値段が高いから。
タクシーもその経営は資本主義の論理で動かねばならないから、利用者による賃金で運転手さんの給料や会社の利益を出さねばならないわけで、だから値段というのはどうしても高くなる。
ましてや車社会が発達してタクシーの利用が先細りとなっている地域においては、値段はますます上がってゆくという悪循環である。
私は資本主義というシステムは何かと欠点の多いシステムだと思っている。
高度経済成長が見込めるような時期には何もしなくても成長のパイがまだまだ社会全体に有り余っているから、儲けは自然とついてくるのだが、しかし、経済が成長しきって低成長になると途端にその必要経費を全て商品の値段の中に入れ、しかも利益をも出さねばならないというそのルールが、かなり負担が重くのしかかるようになってくるのである。
鶴見俊輔さんはマルクスは百年持つ思想だと仰ったが、逆に言うと百年しか持たない思想だとも言えるわけで。
その点、仏教は千年持ったし、神道に至っては二千年以上持っている。
今、再び私達はその知恵にあずかる時期が来ているのではなかろうか。
しかし昔の貨幣経済の実態というのは一体どうなっていたのだろうか。
私もその点に関しては余り詳しくないので、詳しい方がいれば是非話を詳しく伺ってみたいものだが。
しかし聞くところによると誰でも一律に値段が同じということは資本主義以前にはなかったそうである。
同じ商品でも金持ちと貧乏人では値段が違ったそうで。
それに真面目に経営していればどうしても赤字になる、しかし社会にとって必要な事業に関しては公的な部門がその責を取っていたようである。
そしてその赤字分が溜まりに溜まると、何十年かに一度借金をチャラにする施策が行われたようでもある。
これも、社会全体にとって必要不可欠な赤字だったから、そのような一見無責任とも思える借金チャラの政策にも庶民の理解はあったらしいのである。
タクシーの利用に関しても、その一番のネックとなっている利用料金について新しい発想で値付けをすることができないものだろうか。
これまでのように利益を基準に考えるのではなく、それを利用するお年寄りの心理に基づいて値段を決めるのである。
例えば、車を持たないお年寄りがどこかに出かける時、車を使わざるを得ない状況になった時、家族に頼るかそれとも公共の交通機関を利用するかのどちらかの選択を迫られる。
実際、家族に頼るのも何だか忙しそうにしている子や孫の姿を見るとなかなかに心理的な抵抗が芽生えてきて、何だか無料で使い倒すというのも気が引ける訳である。
その点、公共交通機関の場合は、利用するのに金銭を支払うので一方的な労働の搾取という感じにはならず応分の負担が却ってそれを使う側のお年寄りの心理的な負担を軽減してくれる。
いわば、金を払うことで関係性が一方的にならずに済むわけである。
しかし問題はその値段が今のところ余りに高すぎるという点にある。
このような利用する側の心理的な観点からタクシー料金の「適正価格」を導き出すことはできないものか。
ちょくちょく利用しても、年金暮らしのお年寄りの負担にならない額。
しかし逆に安すぎることで感じられる罪の意識を感じない程度の応分の負担。
ある人にとっては、それは一回の利用料金が三百円でもあり五百円でもあり千円でもあるだろう。
これは理想論だが、こういう値付けが出来たなら、タクシーを利用する人は増えてくるように思う。
そして何よりそこで働く運転手さんにも、自分の仕事が社会に貢献できているという誇りを持てることにもつながるだろう。
値段は、裕福な人とそうでない人で違っていてもいいとも思う。
しかし、低成長時代における経済の新しい在り方を模索するのは我々国民の使命かとも思う。
もうそろそろ、今までの山師的な才を必要とする強欲資本主義を脱して、そのような時代に見合った「新しい知恵」というのが出てきてもいいように思う。
筆者も上のような議論を書きながら、財源は一体どうするのかと悩ましい思いで居るのだが、これだけ頭のいい人が揃っている国で、その解決ができないこともないようにも一方ではそう思う。
今、時代から取り残されているタクシーの問題を通じて、新しい社会の在り方を模索する。
それが上手くいってタクシー業界全体が盛り上がって行くと、今度は運転手さん不足の問題なども出てくるだろう。
今のネットショッピングにおける宅配業界の人手不足のような問題が少なからず起きるわけである。
人間、適度に忙しいという状態が一番幸せだと思うのだが、人手不足で働き過ぎになると今度は運転手さんが不幸になってしまう。
皆が幸せに円滑に社会生活を送ることができるために、その時は政治などの出番となろう。
筆者が子供の頃、町の唯一の商業施設だった商店街は夜の六時になると店を閉めていた。
また平日の一日は必ず休みを取っていた。
しかし、それで何か生活に困ったことがあったかと言えば、記憶にある限りまずなかったように思う。
当時は、ウチの母親もそうだが、専業主婦というのが一家に一人居た時代で、なにか要る物があると母親に言って昼間に買いに行ってもらっていた。
そんなこんなで何とかなっていたのである。
店が二十四時間開いてなくても、実際には困ることはほとんどないように思う。
タクシーもまた、夜遅い勤務や朝早い勤務など課題は色々あるだろうが、どこかに必ずあるベストな妥協点を見出して行けたら未来は明るいであろう。
その他、仕事でハードに一日に何度もタクシーを使うお年寄りや、極度の遠出を繰り返すお年寄りなど色んな客が出てくる可能性があるが、その都度、皆の知恵で解決できれば理想だろう。
儲けを出さねばならないという資本の論理が、体に合わなくなった服のように窮屈に感ぜられるのなら、その服を新しく仕立て直せばいい訳である。
昔からそういう風にして社会は発展してきた。
今、免許返納という時代の風の中で、逆に言えばそこに新しい可能性が潜んでいるわけで。
そこに周回遅れの地方のタクシー業界の改革を通して、新しい時代の模索をしてみる。
最初は限定的な社会実験のような形でもいいだろう。
貨幣に振り回されるのではなく、貨幣経済を使いこなす。
今、求められているのはそのような知恵だと思う。
若くて才のあるカリスマ的経営者が必要な「成長至上主義的な資本主義」から、人に優しい年寄連の協和的資本主義へ。
本日も最後まで読んで頂きありがとうございました。