美に関する考察で印象的なのはカントのそれで、美一般を貫く原理に理論的な裏付けは一切ないことをその著書の中で明らかにした。
たしかに理論的に考察すると自然法則のような確固たる原理は美の世界にはないのは頷ける。
だけど本当に何もないのだろうか。
筆者は写真をやっているが、細々とやってきた中で見えてきたことは誰もが賞賛するような「上手い写真」というのはたしかにあるということ。
しかし、写真も美的に考察するとそのような「上手い写真」だけに収まらない独自の美意識を持ったヘタウマな写真というのも一方でちゃんと存在することに気付くわけで。
そうしてそのような二つの異なる美意識の写真を並べて考察してみるとたしかにカントの言う通り、そこには何らの連関もない。
時代による制約や、それまで積み上げてきた歴史や文化、そのような目に見えない古層の蓄積によっても美は制限されながら成り立っているように思える。
我々は知らず知らずのうちに、自分の身の回りにある自然や文化的建造物などを通じて「美」のイデアなるものを発達させてきたのであろうか。
実際、美のことを考える時、そこに確固とした理論的裏付けができないことは確かなのだが、一方でプラトンのイデア論のような何かしら美の原型となるものが私達の想念の中にあることは否定できないようにも思える。
ある人は自然を見て美しいと思う。
しかし一方では自然界にはそのまま存在しない丸や三角か四角といった人工的抽象的な形に対しても人は美を感ずる。
さらには、見たことのない全く新しいものを見た時にも何故かかつて見たような懐かしさを覚えるようなこともある。
と考えると、やっぱり何か美にはその基底となるイデアのようなものがあるのではないだろうか。
しかしそれらを貫く一つの原理はどこにもない。
なるほど美とは考えれば考えるほど複雑で謎に満ちている。
そのことをカントよりもっと直接的に明らかにしたのが、フランスの現代哲学者・文学者ロランバルトによるモードの考察を扱った記号学の本だった。
筆者は学生時代、背伸びしてその本を買って読んだのを覚えている。
モード、つまりファッションの世界では、モード的である(おしゃれである)のとデモード(おしゃれじゃない)という区分分けは、権威あるファッション雑誌の全くの恣意で以て決められるというのである。
つまり分かりやすく言えば、ファッション誌がこれはおしゃれ、これはおしゃれでないと好き勝手に判断して独善的に美の基準を決められるということである。
さてここで本題である。
そのような美の特性を生かして人の生き方を規定しようとしたのが日本古来の知恵であったように思うのだがどうだろう。
例えば歳をとるとは、少しずつ壊れていくことだと思う。
分かりやすく言えば、歳と共にポンコツになっていくのが人の人生ということである。
大体が、私達の身体からして、元は宇宙の中をなんらのカタチを持たないまま漂っていた原子や粒子が、何故か統一的な肉体へと固まっていって成立しているものと言えるわけで。
つまりエントロピーの低い状態が生命の本質であって、その凝縮する力によって何とか成り立っているのが生命の本質と言える。
その低いエントロピーの状態を何とか無理して維持しているのが生命の本質だとしたら、死や老いとは、逆にエントロピーが増大して行く滅びの過程と言える。
が裏を返せば、凝縮という名の雁字搦めの法則の縛りを受けて敢えて小さく凝り固まっている生命の本質が、その束縛を離れてどんどん自由になって行っているのが老いや死だとも言える。
つまり身体という偉大な小宇宙から離れて本来のただのばらばらな原子や電子に還るその過程は、偉大なる自然=自由への帰り道と見ることができるという訳である。
ここには生命の本質を見つめた美的な意味の転換がある。
それが古人の知恵と言えるのかもしれない。
つまるところ、老いの本質はアナーキーで無軌道な自由への逸脱であって、本当なら次第次第に役立たずになって行く哀しきポンコツへの道なのだが、しかしそれでは生きていても面白くないから、それを「偉大なる自由への道」として美的に価値を顛倒し、老いることを楽しめるような仕掛けを作ったわけである。
つまり身体そのものが自然に還ることを老いに伴う自由化の一つと考えたわけである。
人生百年時代と言われる現在、このような古人の知恵を再び活かす時が来ているのではなかろうか。
歌舞伎の世界では、五十、六十、鼻たれ小僧というそうである。
男は七十、八十、九十になってこそ本物だと。
そうだとすると、老いることも何だか楽しくなってこないだろうか。
本当は体のあちこちが痛んできて、頭の回転も鈍る、視力も衰える、もちろん聴覚も、味覚も。
何一ついい事のない老いもただ一点、若い頃にありがちな原理主義的な縛りから自由になれるというその点において、年寄は「自由」である、それこそが老いてなお生きる人間の誇りなのだ。
このように美の規範を基に倫理を制するというのは日本古来の知恵であるように思う。
話は変わるが、先日歌舞伎の「野晒悟助」をテレビで見る機会があった。
主人公の悟助は、悪党に絡まれる名家の御嬢さんを一対四という多勢に無勢の中、全くひるむことなく闘って救いだし、その助けた御嬢さんに懐からぽんと一両という大金を差し出す。
一両と言うと今の貨幣価値でいうとどのくらいであろうか。
十万か三十万か百万か。
今の時代にそのような大金をぽんと出して平然としていられる人がどれくらいいるだろう。
とにかくかっこいい男であった。
この芝居には男の夢が詰まっているとそう思った。
持って生まれた力を「正しく使い」、世のため人のために尽くす。
金も力もあって、しかも女にもモテる、永遠の男の夢である。
例えば、戦後の日本では力を使うことや持つこと自体を恥じる風潮があった。
平和は大事だし暴力は否定されるべきだろうが、しかしそれだけで世の中収まるのであろうか。
余りにも力を敵視し過ぎたたため、本来力を持っている人までが何だか文弱になってしまっている今日このごろの日本である。
「男の道教育」などと言うと、ジェンダーフリーの立場から異論が来そうであるが、しかしそんなつまらないことを言うのはそろそろやめにしたらどうか。
男の子に響く言葉があるなら、上手くそれを利用すればいいだけの話で、せっかく持って生まれた男脳、女脳の区別をなくそうなくそうと壮大で無謀な人体改造計画をでっちあげるより、それを巧みに使いこなす方がずっと現実的なように思うのだが。
侠客というのもこれからは、せこい縄張り争いや金儲けに終始するような情けないワルはいい加減卒業して、昔ながらの倫理と正義を体現する「男の中の男」を目指すべきであろう。
世の男性諸君、野晒悟助のように生きてみないかと問うてみたい。
また、いじめのような問題でもそこに正邪の別でなく、美的な価値を持ち込むことで発生を抑えてゆくという方策もあると思う。
例えば筆者の子供の頃は、男の子たるもの弱い者いじめはならんと言われて育ったものだし(まあそれでも筆者は長じていじめっ子になってしまったのだが)、またケンカなどでも武器を使うケンカは恥ずかしいという認識も広くあった。
これらはすべて、かっこいい、カッコ悪いという「美的な基準」が元になっている規範である。
美が人間の恣意で決定できるものなら、それを巧みに利用することは悪いことではないと思う。
今、再びそのような知恵の出番となっているのではないだろうか。
本日も最後まで読んで下さりありがとうございました。